―それでもあなたを見捨てなかった― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年に、主からエレミヤにあったみことば。そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、『なぜ、あなたは預言をするのか』と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。『主はこう仰せられる。【見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。―主の御告げ―あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない。】』そのとき、エレミヤは言った。『私に次のような主のことばがあった。見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、【アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから】と言おう。すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。【どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。】私は、それが主のことばであると知った。そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、彼らの前で、バルクに命じて言った。【イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ】と。』」

エレミヤ書32章1-15節

 

人は誰かとのかかわりの中で生きているな、と思う。だから今私たちは生きている。自分は一人だな、と思う時にどこかで誰かがいて、助けられて。本当に不思議ですよね。考えてみれば、神様が人を造られた時に、こう仰っていたのです。「ひとが、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と。そして神様が助け手を与えてくれた、それは昔だけではなく神様が私たちにいつも助け手を与え、そうして生かされているわけです。神様が私たちを今日も生かして下さっている。神様は御子イエス様のいのちを与えてでもあなたを救いたい、生きてほしい。今日私たちは神様のすばらしさを改めて覚え歩みたいものです。神様をどこまでも求め歩みたいものです。

 

さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、本物の神様を求め続けよう、神様は彼らの、あなたの声を聞き、神様の恵みを見い出させて下さる、神様の恵みが溢れる、繁栄が豊かに広がる、勝利の日が必ず来る、と語られました。神様が彼らに、また私たちの内の魂を癒し、潤される、新しいことをされる、創られる、と語られるのでした。彼らの、私たちの罪によって壊れてしまった関係をもう一度再建させてくださる、命で満ち溢れさせてくださる、字面ではない、本物の神様の愛、お心が私たちに注がれ生かされる、と。

 

そんな希望の手紙、神様の訴えがあった中、ゼデキヤ王の治世の第10年、ネブカデネザルの第18年、ネブカデネザル王によってエルサレムは完全に包囲されていました。これまでゼデキヤはネブカデネザルに逆らったため、包囲されました。もうこの後捕囚に向かうだけです。その時、神様のこれまでずっと見てきた希望を握りしめるか、それとも自分の道を行くか、今それが問われていました。

 

その時神様は彼らを見捨てられたのか、こんな絶望下で。言葉だけ希望は語られ、実際はどうだったのか。そのときのことについて、「バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、『なぜ、あなたは預言をするのか』と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。『主はこう仰せられる。【見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。―主の御告げ―あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない。】』」とあります。

 

この包囲は1年半続きます。一体神様は何をしているのか、どうしたらいいのか、本当に分からない状態にありました。エレミヤ自身も、神様から預言者として召し出されたのに、監禁、この後さらには井戸の底に幽閉されていきます

 

この時、ゼデキヤ王は「なぜ、あなたは預言するのか」と問いますが、預言というのはこれまでも触れてきたように、人が考えたこと、予想、願望とは違い、神様が語られる言葉です。それは神様の御心であり、ご計画です。神様が語られるから、それを伝えるのです。神様は悪の道に人を導こうとしません。悪の道に進む人がいるという現実も確かにありますが、それは人が与えられた自由意志のもとで選んだこと。ただ、神様は私たちの足の灯火、道の光として語られるのです。神様が最善の道へ私たちを導くため、私たちに生きてほしいから、語られるのです。

 

エレミヤはこれまで何度も迫害され、殺されそうになりました。ゼデキヤにこれからバビロンに捕囚されていく、なんて語れば何をされるか分かったものではない、というよりも予想はつく話です。しかし、エレミヤは神様のことばには命がある、救いがある、↑の前まで見てきたように、神様が将来と希望をもたらす計画をもっている、そう信じているのです。永遠の愛をもって愛される神様が、回復させてくださる、バビロン捕囚中も神様が支えられ、また必ずこの地に連れ帰して下さる、神様の全ての計画に彼は委ねていた、信頼していたのです。彼は神様のご計画を信じていた、実現してくださる神様を信じていた、だから語るのです。

 

神様はゼデキヤに実は生きる道を示されているんです。↑をよく見ると、神様は「見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。―主の御告げ―あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない」と語られていますよね。確かに捕囚されていく、ただこれまでも見てきたように、神様も一緒に行く、ただ「ゼデキヤは、わたし(神様)が顧みる時まで、そこにいる」と約束されているのです。

 

人の目から見たら敗北の時です。ゼデキヤは王としてそれは我慢ができない事なのかもしれない、しかし神様よりも彼は優れた王ですか?神様に勝ることなどできるでしょうか。確かに時に「あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない」と言われるような問題もあるでしょう。ただ私たちが戦って勝てないから諦めるのですか?神様はこれまで見てきたように将来と希望を与える、必ず「神様の」勝利に導かれる神様です。神様に勝るものはありません。私たちは神様と戦っている場合ではないのです。

 

しかしゼデキヤ王はこれを拒否し、投降し、神様が導かれる方向へ向かうのではなく、王でありンながら自分が助かることを考え、逃げた先でゼデキヤ王は捕らえられ、目の前で家族を惨殺され、目を…そして顧みられる前に彼は捕囚先で、囚われの身のまま殺されることになります。彼の前に捕らえられた王エホヤキンについて、歴史書で「彼(エビル・メロダク)が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた」と記録されています。結局神様が顧みられることを求めていたかどうか、そこだと思うのです。私たちは、神様に立ち返り、神様の救いを願う時、私たちは世の服を脱がされ、神様の衣を着、神様の恵みに生きることが赦される、神様はその恵みの食卓に招かれるのです。

 

神様はエレミヤに、「見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから』と言おう。すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』」と語られ、エレミヤはそれが神様のことばであると知って、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払いました。普通に考えたら無駄に感じるかもしれません。もう捕囚される、価値なんてなくなる。しかしそうではないのです。本当に買い戻して下さるのは神様なんです。神様を信じて何になる?いえ、神様を信じるんです。雨が降ってから畑の準備をするのか、降る前に畑を準備するのです。

 

もちろん、神様を金銭で買う云々の話ではこれはない、でも神様があなたの人生を買い取り、導いて下さっているんです。罪で捨てられ見捨てられてもおかしくない、でも神様はあなたを囚人、罪人から、神様の子、家族へともう一度買い戻すため、私たちの罪の罰を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちのいのちを取り戻して下さった、神様のいのちが溢れる畑へと変えてくださったのです。

 

神様は、なぜそんなことを語るんだ、と私たちはゼデキヤのように疑問に思う時もあるでしょう。しかし神様が、あなたを愛しているから、語られる、あなたにいのちを得てほしいと、御子イエス様のいのちを差し出されてまで愛を実行されました。この愛にあって私たちは今日生きている、生かされているのです。神様があなたを顧みられたいのちです。この神様があなたに持っておられる計画、希望に大いに期待しよう。神様があなたの内に実現される愛は、御子イエス様のいのちを惜しまなかった究極の愛なのだから。