「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。それから、議員たちに向かってこう言った。『イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。』彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」
使徒の働き5章33-42節
私たちはある意味で一人では生きてはいけない。色んなことがある中で、なんだかんだで誰かが周りにいるでしょう?私たちは一人だと思うようで神様は誰かをあなたの近くに遣わされているんです。私も25年程前に自殺を試みていたところ、私がそんな状況に追い込まれていることを知らない友人が助け出してくれたことがありました。確かに神様がおられた、今もおられる、そう確信しています。私たちはどうしたらいいのか分からない場面に時に遭遇します。しかし私たちはこの神様に頼っていいんです。神様はあなたをいのちの道に、ご自身のもとに帰ることを何より待ち望んでます。あなたを助ける、救うためなら、御子イエス様のいのちさえ惜しまないほどに愛され、行動される神様なのです。私たちは今日誰に頼っていますか?
さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生したころの話になります。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれ、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊につかれた人などいました。しかし、自分たちの保身、名誉を守りたいがために神様を見ていない宗教家たちが使徒たちを再び捕まえ牢に入れます。しかし御使いを神様は遣わし、彼らを救い出し、宮で再び語るように、と神様が弟子たちに語られました。それに怒った宗教家たちは↑でもあるように、なんとか彼らを罰しよう、殺そうと試みます。
使徒たちからしたら理不尽な話です。そうでしょう?弟子たちが何か悪いことをしましたか?生まれつき40年足の萎えた人を癒した、誰もこれまで助けずきた人を癒し、他の困っている人を助けた。ただそれが自分たちの宗教的地位が脅かされるからと言ってなんで迫害される必要があるのでしょう。宗教家たちは、使徒たちは神様を冒涜している、といいますが、彼らこそ神様を冒涜し、神様が遣わした救い主を十字架に架けて殺したではありませんか、それでも神様は使徒たちを遣わし今彼らの救いのためにイエス様の救いを語り導こうとしているのに。
しかし、ここで神様は一人の正しい人を立てます。↑で出てくるガマリエルという人です。彼は後に出てくるパウロという人の師にあたる人なのですが、この宗教家たちと一緒にいることから、彼も同じような地位や名誉に縛られている人なのかと思ったらそうでもなく、どうも彼は純粋な律法学者と言いますか、神様が旧約時代に律法、私たちが幸せになるために教えられたものを忠実に守っていた、そんな感じの人だったようで、あくまで神様自信を求めていた人だったようです。彼もやがて死ぬのですが、後に彼については彼が死んだことで律法の純粋性、神様を真剣に求める律法学者・宗教家たちはいなくなった(キリスト教徒とは別な方向で)、と。
それほどに彼は真剣に神様を求めていました。その様子は↑での彼の「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」という発言にも見る事ができるでしょう。
そうなんです。結局私たちは誰を求めているか、なんです。最後に彼が語っている通り、すべてを神様の手に委ねる事、すべての主権は神様にあるんです。これまで旧約聖書の分かち合いの中で多くの裁きについても分かち合わせて来ていただきましたが、神様は悪を放っておく方ではない。また蒔いた種は必ず良くも悪くも刈り取ることになります。
ただ神様から出るものを人が打ち倒すことはできないのです。今ペテロたちが行動していることが神様から出ている事なら、これを打ち倒せない、と。事実ペテロたちをここで打ち倒すことはできません。結局神様の御心がなるのです。もちろん、人が自分の意思でこれを覆そうとして無理を打つことはできても、それに対して結局は先ほどの刈り取りの話ではありませんが、ガブリエルが言うように私たちは神様の思う者とは違う実を刈り取ることとなります。
ある人は別に?と思うかもしれませんが、それでいいの?神様の、あなたのことを造られ、愛する神様があなたに注ごうとされている御心を、恵みを拒否して何になりますか。神様は、牢に捕らえられた使徒たちを、捕らえた宗教家たちを神様は見捨てるのではなく、何とか彼らが悪から立ち返ること、イエス様の救いを得ることを願い、使徒たちにもう一度宮に立ってこの福音を語るように仰られたのです。神様は、そこまでしてでもあなたに滅びの実ではなく永遠のいのちを得てほしい、と願われたのです。そのためなら神様は御子イエス様を私たちの救いのため、罪を赦し救うため、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、新しい命がここから始まるのです。永遠の滅び、裁きではなく、永遠の救い、いのちへと招かれるのです。
私たちはもう神様と敵対するものとなってはいけない。あなたはこの御子イエス様のいのちにあって今生かされているのです。この恵みが今日注がれているのです。この愛に、この救いに何が勝れるでしょうか。私たちはこのイエス様の愛がどれだけ注がれたのか今一度思い返そう、そして心に刻もう。そして私たちはこのイエス様にある命に恥はなく、神様の完全な御心がここに現わされていく事を何より祈り願うものであろう。人の手で事を進めるのではなく、神様の国とその義をまず第一と求め、これが完全に現されることを。
