―たとえ落胆しても、それを変えくださる方がいるから― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。私が多くの人のささやきを聞いたからです。『恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。』私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。『たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう』と。しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。」

エレミヤ書20章7-13節

 

人の心は元気な時もあれば、悲しみの中にある時もある。これは人に感情というものがあるから別に悪いことではありません。喜ぶ人とともに喜び、悲しむ人とともに悲しむことをパウロという人を通して神様は教えられていますし、その感情を神様は否定されるわけではありません。言葉にできず、内に秘めている悲しみも時にはあるでしょう。今は見せられない、けど心の内は、ということが。ただどうか忘れないでください。この悲しみの涙を喜びの涙に帰る神様がおられるという事を。神様ご自身が私たちの喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しまれ、私たちを導き、救い出して下さるということを。私たちが神様から離れ、罪の奴隷となった時、このまま滅びゆくことを悲しまれ、私たちの身代わりに十字架にかかられ死なれるほどに、私たちを愛しているイエス様があなたと共にいて、導かれるから。

 

さて↑は、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたものの一つになります。ある日、神様はエレミヤに、神様の指定した陶器師の家に行くようにおっしゃります。そこで神様は、陶器師が粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えている姿を見せながら、神様は、神様の御手の内に全てがある、この神様に帰ろう、もう一度神様があるべき姿に回復させよう、その息吹を吹き込もう、だから今こそ尋ね求めよ、立ち返れ、と訴えました。またこのまま神様から離れ、壊れてしまった関係に進む前に悔い改めいのちを得るように。

 

しかしここで思わぬことが起こります。祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いて、彼は預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないでしまうのでした。しかし神様は結局彼らは滅びる、だから滅びに向かう道ではなくイエス様という真理、救いにあって自由とされること、そこに今招くのでした。

 

ところが、この出来事がエレミヤを悩ませます。彼への迫害が彼をある意味で苦しみ悩ませ、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」と神様に申し立てます。

 

エレミヤにしては珍しい苦悩のことばです。でも人は思い悩みがあってもおかしくはないんです。聖書の中でも信仰者として有名なダビデ王も、神様への賛美の詩以外にも嘆きの詩もやはり多く残しています。しかし、だから神様を諦めるのではなく、むしろだからこそ神様を求めるのです。求めて良いんです。神様は黙っている方ではなく語られる神様、神様は応えてくださる神様。私たちは苦難苦境の時に神様を諦めていませんか?

 

エレミヤは今、神様に訴えるのです、「主よ」と。民に神は私を惑わしたとか、そういうことを言うのではない、神様に自分の正直な思いを訴えます。このエレミヤの思いを第3者である私がくみ取るというのは非常に難しいものがあるのですが、それでも私はエレミヤの神様に対する信頼、結びつきを感じられずにはいられません。「あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」というのは、神様が仰られたことに、彼はその身を委ね、語ったというのです。神様に信頼するからこそ、委ねることができたのです。

 

じゃあなぜこんな「神様が私を惑わした」などという表現を使ったのか。ある牧師さんは、神様に言われるままに、これまで見てきたように預言したら民から、お前は神から惑わされているんだ、と言われ、物笑いにされていたんだ、その表現をそのまま使ったんだ、と言っていました。なるほど、と思います。

 

ただ、ここで神様は本当に私たちを惑わすことがあるのか?これは私たちにも問われます。お前は惑わされているだけだ、と人から言われたり、世の状況が私たちを惑わすこともあるでしょう。しかし神様は私たちを惑わせることはありません。私たちはどうしても今申し上げたような私たちを惑わすような声に触れますが、その時神様の声と比べて迷っている場合ではありません。「世から、世間から」私たちを惑わすような声があっても、私たちは神様の御声に聴きましょう。神様は私たちを惑わす声、道から、いのちの道へ帰っておいで、といつも語っておられる。神様は、そうしてどう生きたらいいのかわからずさ迷い歩く私たちを救うために、神様のいのちのもとへ引き戻すために、御子イエス様を私たちのために遣わしてくださったんです。どこか遠くから見て、時々助けるのでもない、神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さない点を除いて完全に人となって生まれてまでであなたを探しに来られたのです。

 

神様は私たちを惑わされる方ではなく守られる方、いのちの道へと導く方です。神様ご自身があなたを探しに来られました。どんなに世があなたを惑わし、神様は何もしない、とかささやきかけても私たちは神様に帰ろう、神様に尋ね求めよう。私たちは世に同調して、神様を物笑いにしていませんか?でも神様は、私たちに不安や悩み、どうしてこんなことが、と思うようなことを逆転させ、神様にある笑顔に私たちを変えてくださる、神様はあなたを一人放り出されるのではなく、一緒に進み神様のいのちの内へと導かれます。私たちは神様を物笑いに、諦めている場合ではありませんよ?神様の愛は本物です。本物、本気でイスラエルの民がこのまま滅びゆくことを我慢できない、とエレミヤを通して、どんなに笑われようとも神様は語り続けておられるのです。

 

エレミヤはさらに「私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。私が多くの人のささやきを聞いたからです。『恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。』私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。『たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう』と」と語ります。確かに周りの状況を見て、神様を信じて何になるのか、語って何になるのかと思うようなことが私たちの目にはあるかもしれません。

 

ただ、神様は語られたことを、約束されたことを虚しくかえってくるようにされる方ではなく、必ずこれを成し遂げてくださる方なのです。人が、ではないですよ?神様が成し遂げてくださるのです。神様の「燃えさかる火」のようなその情熱が、愛が、成し遂げるのです。神様のご計画を、神様の御心をそこに現されるのです。消えそうな火ではない、いや消えそうな私たちの灯火をもう一度燃え上がらせてくださるのです。神様の炎が私たちを強めてくださるのです。私たちに喜びの火で燃え上がらせてくださるのです。抑えようと思っても抑えきれない神様の御心が、爆発するかのように私たちの内に現される、あなたが諦めているような状況にも成し遂げてくださるのです。私の思いではなく、神様の御心が。

 

私たちは神様への希望の灯火を消してはいけません。どんなに周りが「恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう…たぶん、彼は惑わされるから、われわれが彼に勝って、復讐してやろう」と私たちにあきらめの風を吹き付け、消そうとして来ても、私たちは神様を待ち望もう。神様の火を私たちが消してはいけない。イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と仰られました。私たちはいのちの光を持たせていただいているのです。このイエス様が私たちを生かし、またその道を照らして下さる、イエス様ご自身が私たちの手を取り導いて下さっているのです。あなたの内にこの命の光はありますか?

 

神様は私たちにこの「いのちの光」を持たせるために、御子イエス様を私たちに先ほども申し上げました通り遣わして下さりました。なんとなく気が向いたから来られたのではない、あなたへの燃え上がる愛を現すために、すべてを投げうってでもあなたを救いに来られたのです。遠くから見つめ、時々助けるのでもなく、私たちの間に住まわれ、その愛を現された、光として私たちを照らしに来られたのです。

 

しかしそれでも神を信じて何になる?と疑い、自分の思う通りにならない神など神ではないと離れる民、私たちを見捨てず、ついには神様は私たちの思い煩い、痛み、悲しみ、何より罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、罰し、死なせたのです。私たちが物笑いになり、ついには捨てられ、滅びゆくしかないところから引き上げるため、イエス様が嘲笑われ、ツバキを吐き掛けられ、罰せられた。ありえない話。それでも神様はこの燃え上がる愛を現されたのです。罪のに対する怒りをイエス様に注がれ、罰するというあり得ない形をもって私たちを救おうとされたのです。そして3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

私たちはこのイエス様にあって今、「いのちの光」を与えられている。決して消えることのない聖霊様の炎が私たちの内に燃え上がっているのです。神様の愛がここに溢れているのです。もう私たちは神様への希望の灯火を消してはいけない。この命をかけて愛されたイエス様が今日、あなたを惑わすのではなく、あなたと共にいて導いて下さる。このイエス様のいのちにあって開かれたいのちに今日私たちはあるのです。私たちはこの燈火をどこかに隠すのではなく、高く掲げ、歩ませていただこうではありませんか。この希望の光がさらに世を照らし、神様の栄光が満ち満ち溢れることを切に祈り。他でもない、「主よ」と祈り。