「それから、私に次のような主のことばがあった。『イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。【主はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行ないとわざとを改めよ。】しかし、彼らは言う。【だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行なうのだから】と。それゆえ、主はこう仰せられる。【さあ、国々の中で尋ねてみよ。だれが、こんなことを聞いたことがあるか。おとめイスラエルは、実に恐るべきことを行なった。レバノンの雪は、野の岩から消え去るだろうか。ほかの国から流れて来る冷たい水が、引き抜かれるだろうか。それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、むなしいものに香をたく。それらは、彼らをその道、いにしえの道でつまずかせ、小道に、まだ築かれていない道に行かせ、彼らの国を恐怖とし、永久にあざけりとする。そこを通り過ぎる者はみな色を失い、頭を振る。東風のように、わたしは彼らを敵の前で散らす。彼らの災難の日に、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。】』彼らは言った。『さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう。祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから。さあ、舌で彼を打ち、彼のことばにはどれにも耳を傾けまい。』」
エレミヤ書18章5-18節
人の話を聞く、ということはとても大事ですね。傾聴、というものもありますが、これが意外に結構難しいんです。言葉は分かっていても、いざとなるとこれができない。最後まで聞けない、自分の言いたいこと、押し通したいことがどこかにあるからなのか。これをすると変な方向に生きかねない、関係が壊れかねない。本来のその人の向かうべき方向に向かえなくなる。神様はね、私たちをご自身のイメージによって造り上げたいんです。最高のあなたにしてくださる。神様はあなたのことをよくご存じであなたの声を聴き、叫びを聞いておられる。私たちはこの神様に委ねよう。神様が語られることに信頼し、この神様と結ばれる、神様が命をかけてまで愛された、その愛によって結ばれたいのちの関係に生きようではありませんか。
さて、古代イスラエル王国において北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様は私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。本来捨てられてもおかしくない私たちを、王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤されると約束され、その契約はまさに今、御子イエス様のいのちをもって私たちとも結ばれる、善にして善を行われる、慈しみ深い神様が今日あなたに恵みを注がれている、と。神様はもう罪やサタンによってあなたの心を刻まれるのではなく、神様の霊に満たされるよう招かれるのです。本当の意味での癒し、救いに、終わることのない平安に、安息に、イエス様の花嫁として本当のいのちの関係に。
そんなある日、神様はエレミヤに神様の示される陶器師の家に行くように神様は仰ります。そこでエレミヤはちょうど、陶器師がはろくろで仕事をしているのを見ます。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えていました。
そこで神様は「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」と仰ります。
陶器師の話については昨日も触れましたが、そもそもの話ですが、製作者にはその作品をどうすることもできる、その権利はありますよね。今、これを書きながら思ったのですが、逆に誰かに忖度してその方向性を曲げて、良い作品どころか変な方向に向かってしまうこともありますよね。人間関係もそうか、あまりにおもんばかりすぎて、何か関係がぎくしゃくしていないか?となることもありますよね。でもそこには何も良いものが生まれないな、と思うわけです。
神様はこの陶器師の姿を見せたかった。このろくろを回して粘土・作品を作るわけですが、その作業台にいるのは誰なのか、神様なんですよね。私たちではないんです。作品は誰が作るのかによってその出来栄えも、価値も変わってきます。私たちがその席に座っていれば確かにどんなものも自由に作ることはできます。でもそこには色んな思い煩いやら、思いやらが混ざってしまうわけです。作品なら、それはそれで失敗してそこは終わり、になるのでしょうが、しかし私たち自身はどうでしょう。そうして造り上げられた、建て上げられた人生、いのちはどうでしょう。自分で自分の思うように生きる、造り上げる、それは結構、でもそのうちにある、それこそ粘土の中に混ざった小さな石ころ、色んな痛み、傷、思い煩い、罪などがそこに取り残されていたらどうなるでしょう。誰が癒せるでしょう。そんなものだ、と諦めるのか、それとも直すのか。でも直すというのは簡単ではないんですよね。作品ならともかくとして、自分自身となると。
神様は主権者・陶器師ですからあなたという人を、極端な言い方をするとどうにでもきます。ただ、陶器師はこの作品をどうしたのか。壊した、壊して終わらずに、もう一度神様のイメージされる最高の者へと作り変えようとされたのです。壊して終わりではなく、放置するでもなく。こんなもんだ、と終わらせなかった。彼は彼の思うイメージに作り変えていったのです。それは単純に作り直せばいいじゃない、という話ではないんです。陶芸とかやったことがある人はご存じかもしれませんが、それはそれは大変な作業なんです。時間もとてもかかりますし、中に混ざりこんだ小石を取り除いたり、力加減だって本当に大変なんです。焼き上げて、思うままにいかないことだってある。
でも神様は、それでもあなたの陶器師なんです。神様が、あなたを造られたんですよ?偶然あなたが誕生したわけではない、神様がその御手で一生懸命精魂込めてつくられたんです。お母さんの胎内で子供が少しずつ育っていっている姿を、エコーなどで見てみると本当に驚くべき変化を遂げていきますよね。でもそれって偶然?何かプログラムされている?細胞がそうなっている?違う。だって人それぞれ形も性格も色んなものが違うでしょう?神様が一人一人、その思いを込めて、精魂を込めてつくられて、今ここに私、私たち、あなたがあるんです。
ええ、神様は↑で仰るように、自由にする権利はあるんですよ?でも、それは私たちをいらない、どうでもいいと思う思いでされるのではない、神様の愛えに、私たちを守られ日々私たちをその御手で作り上げておられるのです。日々私たちを守ってくださっているんです。私たちは世にあっては多くの艱難がありますし、私たちの内に神様の愛から引き離そうとしてくるさまざまな攻撃があるでしょう。世の勢力、罪、サタンの攻撃もあるでしょう。世の思い煩いによって私たちの内に様々な不安という名の小石が混ざりこむかもしれない。しかし、神様は一つ一つ丁寧にこれらを取り除いて、神様の御思いを、愛を練りこんで、私たちを形作ってくださる、日々私たちを、私を、あなたをその御手の内にあって手放すのではなく、捨てるのではなく、神様の愛の関係に、つないでいてくださっているのです。
神様が思っているのは、災いではなく幸せ、だからこそ、今神様はエレミヤに見せている、私たちに語るのです。どうでもいいなら神様はそのまま作品を壊して、どこかに捨てる、でも神様はそれをなさらないで語られるのです。神様はあなたの内にある小石を放置されないで、その私たちを捨てるのではなく、神様のイメージ、神様の愛を注ぐ最高の関係、作者と作品、神様と私たちの関係へと結び付けてくださっているのです。
神様は「悔い改めるなら」といいます。悔い改めるなら災いを思い直して下さる、そしてしあわせにしてくださる、と。悔い改めるという事は何か刑罰を受けて、全て終わるかのように感じるかもしれない、しかし私たちはこの作品が火を通して精錬され、最高のものとなっていくように、私たちはこの悔い改めによって、神様に立ち返ることによって、私たちは神様のものとなるのです。神様の作品、神様のイメージした最高の者へと変えられていくのです。神様の愛がそうさせてくださるのです。↑で様々なイスラエルの民の抱えている問題、小石が取りあげられていますが、それが何が悪い、別にいいじゃないか、むしろ自分の好きなようにし、エレミヤを倒す、神様の計画を倒して自分の思う作品にしていこうとしている姿があります。しかしそれはやがて壊されていく、彼らでいうならバビロン捕囚です。しかしそれではだめだ、それを悲しまれ、壊れていく作品、彼ら、あなたをもう一度神様の命、霊を吹き込んで回復させたいのです。
だから神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架に架けられました。私たちが本来壊れて捨てられるはずのところを、もう一度神様のイメージ、本来あるべきあなた、神様の子として回復させるために、神様は御子イエス様に私たち壊されるはずの罪、災い、一切を背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、これを溶かし、もう一度形づくられた、あるべき姿に、新しくしてくださったのです。古いものが過ぎ去って、神様の子、最高のあなたへと変えてくださった、変えてくださるのです。
私たちは今日、この神様の御手の内にあるのです。この命の関係に結ばれているのです。あなたを日々守られているのは、自分や偶然ではない、この命をかけてまで愛される陶器師、神様があなたと共にいる、切っても切れない、イエス様の十字架の血によってかたく結ばれているのです。自暴自棄になる必要はない、神様があなたを今日もその御手の内にあって守られ、その手をもって導かれている。陶器師の席を神様に明け渡そう。私たちの不安や何やらで作り上げられてしまう命を神様に明け渡し、神様の建て上げてくださるのこの命を喜び歩もうではありませんか。神様はこの陶器師の家に行け、と招かれています。あなたは今日どうしますか?
