「主は私にこう仰せられる。『行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、彼らに言え。これらの門のうちに入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。【あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。しかし、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった。もし、あなたがたが、ほんとうにわたしに聞き従い、―主の御告げ―安息日にこの町の門のうちに荷物を持ち込まず、安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら、ダビデの王座に着く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この町の門のうちに入り、この町はとこしえに人の住む所となる。ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地や低地から、また山地やネゲブから、全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、穀物のささげ物や乳香を携えて来る者、感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日をきよく保たずに、安息日に荷物を運んでエルサレムの門のうちに入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くして、消えることがないであろう。】』」
エレミヤ書17章19-27節
平安、安心、そうしたものがほしい。これはたぶん誰もが思っている事なのかな。いつも不安でいい、なんて方はそうめったにいないでしょう。忙しい、こんな世の中だから仕方ない、と私たちはあきらめてしまいますが、私たちは本当の安息を与える方を忘れていませんか?神様は私たちに本当の安息を備えてくださっているのです。神さまこそが安息の源。神様はすべてを備えてくださっている。ここに魂の安らぎがあり、平安がある。あなたは今日神様をどれだけ求めているでしょうか。神様は、あなたに本物の安息を与えるために御子イエス様のいのちをあなたに与えてまでもあなたを招かれている、あなたはどれだけ神様に期待している、信頼しているでしょうか。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様は私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。本来捨てられてもおかしくない私たちを、王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤されると約束され、その契約はまさに今、御子イエス様のいのちをもって私たちとも結ばれる、善にして善を行われる、慈しみ深い神様が今日あなたに恵みを注がれている、と。神様はもう罪やサタンによってあなたの心を刻まれるのではなく、神様の霊に満たされるよう招かれるのです。本当の意味での癒し、救いに。
神様はなおエレミヤを通して「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、彼らに言え。これらの門のうちに入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て」と語られます。
いわゆる安息日、といわれものの話です。この話をすると、意見がいろいろ分かれて大変な話と言えば話なのですが、しかし大前提として忘れてはいけないのは、安息日は人が作ったものではなく、神様が定められた日であり、神様が与えてくださった日、ということです。これを無視すると、今エレミヤを通して神様が語られていることの本質を見逃すことになります。
まずこの安息日ですがいつか、と言われたら昔は金曜日の日没から土曜日の日没までとされていました。今はイエス様の復活された日曜日に礼拝をささげる、そのような日とされています。安息日規定については、これまで律法を分かち合ってきた中で細かく見てきましたが、私たちはどうもこの日を、「~しなければいけない日」、「~してはいけない日」という風なイメージを持ってしまうのですが、そうではありません。それは先に「この日は神様が定められた日、与えてくださった日」と申し上げました通りです。
では、その安息日とは何なのか。すべての始まりは、この天地万物を創造された時にさかのぼります。神様が天地万物を造られすべてを完成されて7日目に休まれた、そこから安息日というものが出てきました。神様がモーセに安息日の話を伝えた時、神様は「それは主が6日の内に、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを作り、7日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」と仰られました。神様が休まれた日、と言えばそうなのですが、もっとよく見てみますと、神様はこの日を「祝福し」、「聖なるもの」とされたのです。誰がですか?神様が、祝福される、神様が聖なる日としてくださるんですよ?神様の祝福が、聖が満ち溢れる日なのです。
こんなすごい日はないですよ。なんとなく1週間善い事があるように、とかそういうことを願って守るとかそういう日ではないのです。神様は、ここに彼らを、私たちを招かれているのです。神様の善、神様の祝福、いのちの中に。↑をよく見てみますと、「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、彼らに言え。これらの門のうちに入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け」と、一部の人ではなく、全ての人を招いていることがわかりますよね。もっと言えば、モーセにこの安息日について告げられた時も、「安息日を、それをきよく保つことによって覚えなさい。6日間あなたは働くだろう、また6日間であなたの全ての仕事をするだろう。しかし7日目はあなたの神様、ヤハウェ様の安息ですから、あなたはどんな仕事もしないだろう。あなたも、あなたの息子、娘、あなたの男奴隷や女奴隷、またあなたの町囲みの中にいる在留異国人も」と、奴隷や在留異国人に至るまで、神様はその祝福・安息に招かれているのです。
神様は↑で「あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て」と仰っていますが、おそらく商人とかそういう人たちがいたのでしょう。仕事をするな、と言ってもどうにもならない日があるではないか、とある人は言うかもしれない。現実確かにエッセンシャルワーカーがまともにこれを字義通りに行ったら大変なことになるのかもしれない。ただ、休みなく毎日働かなければ生きていけないの?いや神様は養ってくださる方です。24時間ずっと仕事をしていなければいけないの?仕事に追われなければ人はいけないの?そうではないですよね。
神様はある時はいてある時はいない、ある時は助けある時は助けない、そういう神様ではないです。イエス様は「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と仰られましたし、「安息日は(神様が)人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日に『も』主です」とも仰られました。神様は、私たちを休ませてくださる。私たちはあれをしなければ、これをしなければ、という思いに支配される。世の流れに支配されてしまう。でも、そうじゃないんです、私たちの魂を神様が癒され、また満たされるのです、平安に招かれるのです。重荷ではなく、イエス様の恵みがあなたと共にある、おられるのです。
何より、神様が定められた日、その主役は神様であり、神様がその祝福の、聖なるわざの源なのです。その神様は安息日だけ、ある時だけその祝福を現される、とは言っていない。もちろん、格別に定められた日ですから、安息日、ないし日曜日というのは特別な者であることには変わりません。しかし、神様はその日に確かに主ですが、安息日に「も」主、つまり、いつも主なのです。私たちの生涯すべてにわたって主なのです。逆にある時突然、神様助けてください、と、さも安息日のようにするのではなく、神様はいつでも私たちを招かれているのです。↑で安息日にわざわざ別な要件を持ち込むように民がしていますが、彼らの内にある仕事への不安にしても、色んな不安がそこにあったのかもしれない。ならむしろその不安という重荷をむしろ神様におろすべきではないだろうか。そこで神様から、料金というよりも、恵み、平安をいただいていくべきではないのだろうか。主なる神様を私たちは忘れてはいけない、神様は主なのです。神様が祝福する、聖なる日にする、と仰られたそれをあなたの内に現される、招かれているのです。↑の後半で彼らは頑なにこれを拒否している様子が描かれていますが、それは頑なに神様を求めていない姿。
先程のエッセンシャルワーカーについてですが、それを言ったらクリスチャンの人は?という話になりますが、あなたのいる場において神様を求めるなら、そこに神様も共いおられますよ。仕事前に礼拝をささげる、仕事後に捧げる、それはできます。ようするに、その日を神様の日として、神様を求めるか、というところなのです。いや、その日だけではなくすべての日に、ですが。
ちなみに、この安息日というのは「花嫁の日」とも言われています。神様はそれほどの祝宴に私たちを招かれているのです。この日は何となくいい日、なのではない、神様が定められた、神様と私たちの花嫁の日なのです。神様は仕事を含め、様々な不安、神様は何もしてくれない、とかそういう世の声、サタンの声などから引き離す、世の現実から、神様の現実と言いますか、真実のもとに引き寄せたいのです。あなたを罪人として滅びゆくのではなく、花嫁、神様の子として私たちを引き寄せるために、私たちのために御子イエス様に私たちの重荷も、痛みも、思い煩いも、何より罪も一切を背負わせ、十字架に架け罰し、死なせたのです。花嫁として迎えたいあなたのためなら、といのちさえ惜しまなかった。どれだけの深い愛が私たちに注がれているのでしょう。こんな頑なな私たちを救うためにここまでされたのです。そして3日目にイエス様がよみがえらせていただいたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。やがてイエス様の花嫁として迎え入れられるのです。
先程イエス様は安息日「にも」主ですと仰られたことを申し上げましたが、ある日だけ祝福するよ、と言っているのではない、今私たちを新しい安息の日、花嫁の日に招かれ、それはもう始まっている、イエス様のいのちにあって、このありえないほどの大いなる愛が注がれる新しい日は始まっているのです。天の御国に行く日まで、いやその後も。私たちは今日すべての重荷をおろそう。神様はあなたの全てをその愛で、祝福で覆われる。あなたの主は誰ですか?
