「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。主は仰せられた。『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。だれが鉄、北からの鉄や青銅を砕くことができようか。わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を獲物として、ただで引き渡す。それは、あなたの国中で、あなたが犯した罪のためだ。わたしはあなたをあなたの知らない国で敵に仕えさせる。わたしの怒りによって火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。』主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。それゆえ、主はこう仰せられた。『もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。―主の御告げ―また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。』」
エレミヤ書15章10-21節
人が悲しみに暮れて、一人になった時、何ができるだろう。かつて26年程前でしょうか、あることをきっかけに自殺寸前までいったことがあります。当時一人暮らしをしていて、もうこのまま食事をしないで部屋に閉じこもっていれば死ねるだろう、とそっと過ごしていました。しかし神様は驚くべきこと一人の友人を遣わして下さり、わたしを家から連れ出してくれました。高校を卒業して以来、その人とはなかなか会うことがなかったので、私の情報を知る由もありませんでした。今みたいなネット社会ではなかったですし、今でも不思議です。ただ私をある神学校の伝道集会に連れて行ってくれたのです。そして神様がお帰り、と言ってくれたのを覚えています。そしてこんな自分を受け入れてくれる神様に帰ろう、と大学に、教会に足をようやく向けられるようになった。神様は、ああこんな自分を見捨てず守ってくれた、そのことを今でも覚えています。神様は今も生きている、だからこの今も生きている神様を求めたいものです。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。神様はここまで、亜麻布を帯でしっかり結ぶように、神様が私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、とご自身のもとに招くかのように語られてきました。王の王、主の主なる神様がすべ治め、私たちの渇いた地を天の恵みの雨で潤される、と語られていました。その契約はまさに今、御子イエス様のいのちをもって私たちとも結ばれていることを見てきました。それでも顧みてくださる神様に立ち返れ、と。
なおエレミヤは「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている」と言います。あ、これは別にお母さんが生んだためにこうなった、と言っているわけではないんです。それを悲しんでいるわけではありません。こんな時代に生きている、悲しみに包まれていることが辛い、そう訴えるのです。
誰でも辛いことはありますし、そう思いたくなることを簡単に否定できるほど私はできていません。大丈夫大丈夫、と軽々しくも言えません。ただ、私たちの帰る場所、受け入れてもらえる場所があるという事をこのことばを聞きながら私は感じるのです。やはり神様のことばって力があると言いますか、本当にエレミヤの預言の一言一言に神様はその熱意を込められているのです。
エレミヤは「私の母が私を産んだので」今この地にいるんだ、と。確かに私たちはお母さんが産み、こうして今生きているわけです。私も本当は生まれるはずがない人間だったのですが、神様が母を最期まで励まし続け、出産に至った奇跡の話を母から聞きました(5年位前にこの話をブログで分かち合ったことがありますが)。神様がいなければあきらめていた、と。ああそうか、もちろん私たちを産んだのは母でしょう、しかし、私たちに命を結局与えてくださるのは神様なんです。神様が私たちを産んでくださったと言いますか、いのちを与えてくださったんです。
これはどれだけ力強い事でしょうか。私たちを最後まで保証されるのは神様。保証してくださっている、これがどれだけ心強い事か。神様は放り出されたのではない、神様のくださったいのちなのですから、私たちがこんな状況、こんな世界とエレミヤが感じるような状況にあっても神様がそこにおられるのです。神様がこの命を与え、その地に置かれた。すべては神様の御手の内にある、だからこそ私たちは頼ることができる、赦されているのです。なんと感謝な事でしょう。
神様はこのエレミヤの思い悩みに対して「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。だれが鉄、北からの鉄や青銅を砕くことができようか。わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を獲物として、ただで引き渡す。それは、あなたの国中で、あなたが犯した罪のためだ。わたしはあなたをあなたの知らない国で敵に仕えさせる。わたしの怒りによって火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ」と答えられます。事実、バビロン捕囚の際、エレミヤはバビロンに連れていかれることなく、自由にするがいい、と解き放たれるのでした。ネブカデネザルからしたら一人でも優秀な人間が欲しい、しかし神様は神様の方法をもって「あなたを解き放」たれたのです。
確かにここでエルサレムの神殿、財宝、様々なものはバビロンによって持ち去られていきました。しかし、神様が残っているではありませんか。私たちを幸せにする神様がおられるじゃないですか。神様にある幸せに招かれることを宣言してくださっているではありませんか。神様が本物の宝を、全ての財宝、宝を用意してくださっているのです。この世の価値では測れないものが。私たちの魂をどんなに奪うものがあろうとも神様を奪い去ることはできない。だから私たちは自分を思い返すにしてもどの道に進むにしても、私たちに命を与え、その道の灯、いやみちそのものとなられた、私たちのゆく道を照らし導かれる神様がおられる。この神様に私たちは聴くのです。御言葉を通して神様は語られる。どんなことがあっても神様から離れてはいけない、神様に聞くことをやめてはいけない、こんな時だからこそ、どんな時であっても神様に聴く、その中で神様は語られ、導かれるのです、ここでエレミヤの苦悩に神様が向き合い答えてくださったように。そこに神様の義が、驚くべき御業が広がるのです。
エレミヤはここで「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです」と告白します。神様が私たちに命の道を教えてくださる。神様の御名がそこに現されることを私たちが待ち望むとき、そこに神様の喜びが心に広がる、神様の楽しみがそこに現されるのです。
私たちは神様を待ち望んでいるでしょうか。つらい時があってもいい、でも神様がいることを思い出してください。罪を犯して…いいわけではありません。罪は罪です。これは間違いない、私が言うのもあれですが。しかし、そのあなたをそれでも神様は受け入れるため、御子イエス様を私たちの罪の代価とされ、身代わりに十字架に架けられ、罰せられたのです。そこまでして神様はあなたを取り戻そうとされたのです。しかしこの義を受けた時、私たちがこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、私たちは罪の赦しを受け、神様のものとされるのです。そこまで愛された神様がいるからこそ私たちは今生きていられるのです。その私たちが神様の義、神様の御心を求めずしてどうしましょう。神様が、私たちを神様の幸せに招かれるために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださった、その犠牲を払ってくださった、それなら私たちは罪の内にとどまらず、神様から離れたところにとどまらず、神様に帰るべきではないでしょうか。
御子イエス様のいのちをもってあなたをもう一度新しい命に生まれ変わらせてくださったこのイエス様から離れてはいけない。神様が幸せにしてくださる、それは神様の御名がそこに置かれるからです。神様の御名があるところに神様の幸せが広がるのです。神様はかつて「わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう」と語られましたが、神様の名を私たちが覚えるところに神様が望み、神様が祝福される。なら私たちは誰の名を求めるでしょう。私の名前、私のわざではなく神様のお名前を私たちは求めよう。あなたのためなら御子イエス様のいのちをも惜しまなかった神様があなたになさろうとされていることを。
神様は↑の最後で「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。―主の御告げ―また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す」と約束されました。
あなたの帰り、私の帰りを神様が待っていてくださる。神様が御子イエス様のいのちを持ってまで救い、助け出されたのだから、私たちは最後まで神様の強固な城壁に信頼しようではありませんか。神様の強固な城壁を破るものは何ものもない、イエス様の愛から私たちを引き離すものは何ものもない、今こそ私たちはこのイエス様に立ち返り、神様の義を、幸せをとこしえに願い、歩ませていただこうではありませんか。イエス様のいのちをもって間で私たちを新しく生まれさせてくださった、この命の道を。神様のことばを求めよう。神様のいのちのことばが、ここを豊かにし、いのち溢れるものとしてくださるよう祈り求めたいものです。
