「日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。その貴人たちは、召使いを、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、農夫たちも恥を見、頭をおおう。若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないためだ。私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真ん中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。」
エレミヤ書14章1-9節
希望…人には希望があります。なかったらつらいですよね。ある時はある、ある時はない、というのはそれは希望ではなく、希望はいつでもある、だから「希望を捨ててはいけない」という言葉があるわけです。よく使いますよね。でもその言葉、何を根拠に言っていますか?根拠があるから希望があるわけです。誰しもがその人の希望の答えにはなることは確かにできないから、その言葉は時に絵空事になるかもしれません。確かに人の与える希望には限界があります。しかし、神様が希望となられる。神様は主です。この世界をすべ治めるまことの神様です。この神様にこそ希望がある。私たちは最後までこの希望なる神様に望みを置こう。
さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になりますが、神様はせっかくの宗教改革の後すぐに神様から離れていったその民に、もう一度神様の愛を、契約を思い出させるために語り、彼らに呪いに生きるのではなく、神様の聖なる民・家族として生きてほしい、と招かれるのでした。ただ彼らは神様に逆らい、神様のことばを語るエレミヤを殺そうとたくらみます。それでも神様は彼らを諦めず滅びゆく呪いの中ではなく、神様の恵みの内に植えたいと訴えます。↑の前の箇所で神様がエレミヤを通して見せたように、亜麻布を帯でしっかり結ぶように、神様が私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、あなたの内側を、世の思い煩いや痛み、罪ではなく神様の恵み、聖霊様で満たしたい、と招かれているのです。王の王、主の主なる神様がすべ治め守られる、と。
神様はエレミヤを通して、今度は日照りについて「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。その貴人たちは、召使いを、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、農夫たちも恥を見、頭をおおう。若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないためだ」と語られます。
実はこの日照り問題について、神様はエレミヤよりも少し前に生きていた預言者ハバククを通して、「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」と語っておられます。実際に、この災害級の日照りは、抽象的な話ではなく実際にエホヤキム王の時代に起こります。神様はなぜそのようなことをなされるのか、神様は愛してくれていないのか?と私たちがそのようなことに現実的にも諸問題についても何か起こると考えますが、果たして神様は私たちを見捨てるのだろうか。
神様はここで今エレミヤを通して警告しています。語られています。神様がもし完全にもう見捨てる、というならわざわざ語らず滅ぼすことだってできるはずです。しかし神様は彼らが神様という希望を抱く、望みを置くよう今語られているのです。神様はこの日照り問題についてこれまで先ほどハバククを通してされた預言でも取り上げましたが、何度も何度も語られてきています。それこそ、古代イスラエル王国が建国される前、彼らがエジプトに奴隷として400年近く捕らえられ、その後かえってくる際にも語られていました。何百年も前からずっと語られてきていたのです。
その際、神様はモーセという人を通して民に、「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。』気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう」と語られていました。
神様は、「天の雨で潤」和せてくださる神様なのです。神様はその御目を注いでくださっているのです。その季節ごとに身を実らせ、いつも神様が満ちたらせてくださる、それが神様なのです。私たちにまず神様ご自身が愛して降り、心を尽くして精神を尽くして私たちを愛してくださる、だからこそ私たちは潤されるのです。神様が私たちをすべてにおいて潤わせてくださる方、神様の方法で、人の方法ではない、神様ご自身がすべてを働かせて私たちに命の雨を注いでくださるのです。
だからこそ、私たちがもし神様を捨てたらどうなりますか?その私たちを生かされる神様私たちに全ての恵みの雨を注いでくださる神様を私たちが退けた時、私たちは何を言うことができるでしょう。神様を退け、でもあれしてください、何でこれをしてくれないんですか?はおかしな話ですよね。
このモーセを通して語られた神様のことばは、「もし神様のことばに聞き従うなら」、「聞き従わないなら」で分かれます。なぜ神様のことばに聞き従うなら、と仰られるのか。それはすべてのことは先ほども申し上げました通り、神様から始まるからです。この天地万物が神様の発するその言葉によって成ったように、神様の発する言葉によってすべてはなる、神様の恵みがそこに現れる、実が結ばれていくわけです。聞くなら、聞かないなら、の前に、私たちは神様を求めているでしょうか。神様の雨を、神様の恵みを、神様ご自身を求めていますか?それは枯れ行くものではない、永遠に立つものなのです。
イザヤを通して神様は「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」と約束されてたのを覚えているでしょうか。神様のことばが永遠に変わることなく立つ、神様のことばが私たちを息吹かせてくださる、私たちを潤し永遠に立たせてくださる、神様が私たちに恵まれるからこそ、神様の偉大な、しぼむことのない大いなるみこころによって私たちは今日生かされるのです。
実は先ほどのハバククを通して語られたこの日照りの預言についてのことばには続きがあり、「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」とハバククは応答します。それでも神様は主、神様の力、神様ご自身に信頼し歩む、その時に神様にある喜びが溢れることを彼は信じたのです。
確かに私たちは不完全です。しかし神様にエレミヤが「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真ん中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください」と答えるように、私たちの希望なのです。先程から見てきているように、神様がいるから私たちは生きる、神様が希望を注がれるからこそ私たちは生きるのです。私たちは神様に望みを置いていますか?完全な希望を抱いていますか?ここに全てがある、と。
パウロという人は「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と語ります。また別なところでは「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と語ります。
イエス様はこの希望となられた、いつまでも残る希望と。それゆえにありえないほどの愛を注がれ、私たちを神様との平和、和解に導かれたのです。それは、神様が御子イエス様を私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架に架け、身代わりに罰し、死なせたのです。ありえない話。何の罪もない、神の御子イエス様が、ですよ。どれだけ人々が、私たちがイエス様を裏切っても最後までその愛を注ぎ続けました。私たちへの愛は取り去られ十字架から降りることなく、私たちが本当の平和、和解、神様から見捨てられるという最大の日照りから救い出すため、最後まで十字架にとどまり死なれたのです。しかしそれでは終わらなかった。神様は3日目に、このイエス様の身代わりの愛、贖いを良しとされ、よみがえらせてくださりました。ここに和解が完成されたのです。このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。
この愛、十字架の愛によって結ばれた和解、これは失望に終わらせることはありません。これ以上ない、友、しかも私たち罪人を友と呼ばれたイエス様が私たちのためにいのちを投げ出してまで貫かれた愛は私たちに希望をもたらします。この十字架の愛、尽きることのない雨が私たちに注がれ、私たちは今日生かされている。あなたの希望は今日、どこにありますか?望みはどこにありますか?私たちはこの神様の希望に生きよう。この神様の希望を私たち望みと確信し、これに生かされ歩もうではありませんか。永遠に立つ神様が今日、あなたを守られているのですから。