―涙で溢れている― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…あなたは彼らにこのことばを伝えよ。【イスラエルの神、主は、こう仰せられる。すべてのつぼには酒が満たされる。】彼らはあなたに、【すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか】と言うが、あなたは彼らに言え。【主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、彼らを互いにぶつけ合わせて砕く。父も子もともどもに。―主の御告げ―わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう。】』耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。」

エレミヤ書13章12-17節

 

人には喜怒哀楽・感情があります。ある程度それは制御されているわけですが、悲しみなどを無理に抑え込もうとするとどこかが崩れてしまう。人がなくなる時もそうですよね。理性で押さえつけようとすると、後で大変なことになる。神様は感情のない方ではありません。無感情に黙っているのではなく、人の悲しみ、苦しみを見て黙っている方ではなく救われる方。あなたが死にゆくことを我慢できず、あなたを救うためなら、御子イエス様のいのちを差し出してでもあなたを愛される、あなたを救われるのです。そこまでしてでもあなたに神様は生きてほしい、救われてほしい、と今日あなたに神様は訴えている。あなたは神様の涙をどう受け取っていますか。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になりますが、神様はせっかくの宗教改革の後すぐに神様から離れていったその民に、もう一度神様の愛を、契約を思い出させるために語り、彼らに呪いに生きるのではなく、神様の聖なる民・家族として生きてほしい、と招かれるのでした。ただ彼らは神様に逆らい、神様のことばを語るエレミヤを殺そうとたくらみます。それでも神様は彼らを諦めず滅びゆく呪いの中ではなく、神様の恵みの内に植えたいと訴えます。↑の前の箇所で神様がエレミヤを通してデモンストレーションされたように、亜麻布を帯でしっかり結ぶように、神様が私たちを神様ご自身のものとしてくださり、その恵みに生きてほしい、と招かれているのです。

 

なお神様はエレミヤに「あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。すべてのつぼには酒が満たされる。』彼らはあなたに、『すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか』と言う…」と仰られます。

 

神様はエレミヤに一つのたとえを用いて民に語るようにおっしゃっているわけですが、イエス様もよくたとえをもって語られました。弟子たちも、なんでイエス様は民にたとえで話されるのですか?と聞いたことがあるのですが、イエス様はその時、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」と答えてくださりました。

 

このイエス様の返答に、今日の「酒のみちた壺」の話が重なってくるのですが、イエス様が仰られたのはようするに、イエス様の話を聞いてその通り、アーメン、と思う人もいれば、自分の考えの方を優先して、いやでもそれは自分には関係ない話だ、などと言ってはねのける人もいる、と。でも神様は良いものを蒔いてくださっているんです、私たちに。良い収穫を、良い実をあなたに結ばせようと。ただ、何か問題があったり、自分たちの考えなどを優先させれば、それは良い物にはならず、終わってしまう。神様が与える良いものを持つものになってほしい、とそれでも神様はあきらめずに語られるのです。悟ってほしい、とそれでも何とか訴えるのです。世が与える実ではなく、神様の実を30倍、60倍、100倍と結ばせていきたいのです。

 

神様はエレミヤを通して彼らに、全ての壺に酒が満ちている、と言います。当時の、いや今もそうですが、イスラエルに避け、ぶどう酒は欠かすことができません。パウロという人も、適度のお酒は薬効という意味では必要、と言っています。そういう意味でお酒が入っている、という事自体が問題ではないのです。ただ、そのお酒は何?そこなんです。パウロという人は「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」とも言いました。私たちを満たすのはこの世の酒ではなく、御霊様なのだ、と。金銭云々の放蕩だけではない、あなたの魂を、あなたを放蕩させるものではなく、あなたを満ち溢れさせる御霊様で満たされる、御霊様によって歩むことを勧めるのです。

 

彼らはイエス様のことばをお借りするなら、悟ってはいなかったのです。エレミヤを通したこの神様のことばに、彼らは「すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか」と答えます。まあ彼らの言い分は分からないこともありません。壺に酒を注ぎ続ければいっぱいになります。でも、先ほどの御霊様の話もそうですが、それを注ぐ方がいなければ満たされることはありません。それに足りない、足りない、自分の考えはそうではないんだ、と満ち足りず、結局心のお酒は満ち足りることはないわけです。壺にかけがあればそこから酒は溢れていきます。神様がどんなに良いものを注ぎたくても、その壺に、いや神様なんて不要だ、とか、そういうものがあったら、その良いものは溢れてしまうじゃないですか。

 

神様はそうではないでしょ、と訴えるわけです。あなたの心の壺に何が満ちているのか。放蕩につながる酒が、罪やこの世の思い煩いなどで満ちていないですか?と訴えるわけです。何で満たしていますか?と。どんなに自分の良いと思うものを壺に、私たち自身の器に満たそうとしても、足りない、足りない、といつまでも満たされることがない、それがある意味では人の心ですよね。多分だからこそ、自分の満たされるものを人は探し求め、さ迷うわけです。

 

ただ、ちょっと想像してみてください。その壺の内側に自分の好きなものを好きなだけ満たしたとしますよ?そこに別なものを注ごうとしても、限界があります。神様がどれだけ良いもので満たそうとしていても、自分が自分が、と自分の内側を自分のお酒で満たせば少ししか入らない。でもイエス様はすべてを洗い聖めて新しくしたい、神様の霊で満たしたいのです。↑の前の箇所で、腐った帯をそのままにせず、もう一度ご自身のものとしてつなげる、結ばれたように、神様は完全な良いもので満ち溢れさせたいのです。溢れさせようとしてくださるのです。神様は、御霊様によってあなたの内を力をもって強くしてくださります。

 

私たちは「すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか」と思うでしょうが、自分たちが自分に注いでいるものを見ていない。神様がどれだけ良いものを注ごうとしているか知らない。私たちはどうでしょう。

 

神様はエレミヤを通して「主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、彼らを互いにぶつけ合わせて砕く。父も子もともどもに。―主の御告げ―わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう」と仰ります。このままだと、結局自分たちが神としている何か、より頼み、依存しているお酒によって砕かれていく、彼らが今度はあなたを支配するようになっていく、それは容赦することがない。

 

しかし、あなたは神様の子ども、神様の民です。神様はもう一度神様の聖なる民として召されているのです。神様はあなたの神となられる、神様としてあなたをいのちあるものとしたいのです。大切な民、大切な子だから。御霊に満たして、神様の喜びで私たちを酔わせる、といいますか、喜びで満たして下さるのです。その時、私たちは砕かれるものではなく、生きたものとなる。滅びるものではなく、やがて朽ちていくものではなく、生きるものとなるのです。神様があなたの王となる。民を浪費させるもの、民から搾取する王ではない、あなたに仕えあなたを神様の富、恵みで満たして下さる方があなたの王としてあなたを治められる、その国を、あなたのいるところを、あなた自身の壺、器を神様のいのちで、御霊様で満たして下さるのです。私たちはそうしてイエス様の似姿に変えられていく。神様のイメージされていた最高のあなたへと作り変えられていくのです。神様はあなたが砕かれ失われていく事、サタンに搾取され、浪費されていく事を我慢できない。

 

だから神様は彼ら・私たちを見捨てず、そんな好き勝手に言って生きている彼らに向け、なお「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」と語られます。神様はそれでも語られるのです。あなたの声を聴き、語られる、神様の栄光があなたに溢れるよう、あなたを招かれる。あなたが暗闇に沈むことがないよう、死の陰の谷間を歩む私たちに光を照らすため、あなたの涙を拭い去らるため、あなたの器、壺の内を満たしている涙を神様のいのちで変えるため、疲れ果て、腐ってしまった酒を洗い聖めるため、神様は御子イエス様を遣わされたのです。失われてしまった魂、神様のくださったいのちをもう一度回復させるため、その霊を吹き込むため。

 

でもイエス様はただ来て一時的に助けて、その壺を満たすだけでは終わらなかったのです。むしろ私たちが渇くことのない命の泉に、水に満たされるために、私たちの内を満たす罪を取り除くため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に身代わりにかかられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦される。私たちの内にあった罪は取り除かれ、古い酒は、あなたを満たしあなたを傷つけていた酒は取り除かれ、イエス様の裂かれた肉・御身体と血潮によって私たちを満たして下さるのです。そこに神様の霊が、いのちが、全てが溢れるのです。

 

神様は今日もあなたのために涙を流され、あなたが生きてほしいとその御手を伸ばされています。御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにしても、あなたが生きる事を願われ、この愛を実行された、このイエス様のいのちにあってあなたに注がれる神様の愛はいかほどか。世のとりこどころか、神様の愛があなたを今日満ち溢れさせてくださる。今日私たちは神様に帰ろう。神様を求めよう。渇くことのない神様の恵みで神様があなたを満たされるから。