―みんな一緒― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」

使徒の働き4章32-37節

 

みんなで助け合って生きる、それは本当に素晴らしいことだな、と思います。これをきれいごとだ、と言われてしまうかもしれませんが、きれいで何が悪いのでしょう。困っている人がいてそれを無視する、そんな荒んだ世の中、好きにはなれないかな。それを黙ってみているのもあれですが。ただ、私たちだって完璧な人ではない。何でもかんでも、という事は難しい。でも、私たちを養ってくださるのは神様。その天の蔵には尽きることのない恵みがあふれている。空の鳥でさえも養う神様があなたをどうして無視することがあるでしょう。私たちは神様を求めよう。そしてこの神様の溢れんばかりの恵みが全地に溢れることを祈り求めたいものです。

 

さて、↑はAD30年頃の出来事。神の御子イエス様が人となって生まれ、その愛を全うされ、ただ助けるだけではなく、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架で罰せられ死なれ、3日目によみがえられた後、イエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した時の話になります。↑の前の箇所では、40年間足の萎えた男性がイエス様の御名によって癒され、議会にペテロたちが逮捕されるという出来事がありましたが、彼らは恐れることなく、また聖霊様の働きによって人々に恐れの心が生じたか、彼らは解放されたのでした。

 

この時逮捕されたペテロとヨハネは恐れることはありませんでした。また逮捕されたらどうしよう、イエス様を信じて逮捕されて、これだったら…と教会を解散することをせず、むしろ1つになることを選びました。自分たちは結局一人では生きていけないんだ、と。

 

↑を見ると○○主義的に感じるかもしれませんが、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」という、この時一緒にいた人の記録にあります。ただお互い助け合って生きて生きましょう、というものではなかった。もちろんお互い助け合うという意識はあったと思います。旧約聖書にも、困った人に対して助けの手を閉ざしてはいけない、と書いてありますし(神様が語られていた)、イエス様も、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られました。また困っている人を見過ごすことに対しても注意されており、この小さな人にしたことはわたしにしたことなのです、と教えられました。

 

彼らは「心と思いを一つにして」いたとありますが、まさに彼らは神様を求めていた。神様に心を向け、信頼し、お互い助け合い、励まし合い、祈り合い、生きよう、と決めたわけです。もちろんただ閉じこもって自分たちだけで生きていたわけではありませんよ?↑の前の箇所までで見ていた40年間足の萎えた男性を助けるなど、様々なところに出ていき、その愛を分かち合っていました。神様のお心、願わくば全ての人が救われてほしい、その願いをもって、イエス様は私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ死なれた。この救いをいただいたペテロたちはこの神様の愛を分かち合わずにはいられなかったのです。

 

誰一人自分の持ち物を自分のものとは言わなかった、それは何か脅迫じみたことがあったわけではないんです。どこかのカルト宗教はそこを勘違いしているのですが。すべて物は神様から与えられたもの、自分で無からつくりだしたものはどこにもないですよね。すべては神様の恵みとあわれみから今私たちは生かされ、また必要が満たされているわけです。それゆえに、それらをある意味では神様にお返しし、それを神様のご用のために用いてください、とそれぞれが思うところに合わせて行動していたわけです。困っている人がいたらこれで助けてあげてほしい、とか。まあこれがうまくなかなか機能しなかったことが後の章で出てくるのですが。

 

モノだけではなく、神様から受けたすべてを彼らは自分のものではなく、神様から頂いためぐみ、「主イエス」様の「大きな恵み」を彼らは分かち合っていたのです。ある人は証を、ある人は困っている人を助け、そうして互いに支え合っていました。ちなみに、この「大きな恵み」ということば、カリス・メガスというそうで、このことばを聴くとそれがどれだけすごいか、なんとなく想像つくと思います。メガという単位、非常に大きなものとして使われますよね。カリス、聴きおぼえないですかね?カリスマの語源。カリスマというとものすごい人のイメージがありますが、実はイエス様にもこのことばが当てられています。本物のカリスマ、恵みに満ち方が、私たちに惜しまずその命を与えてくださった。どこかの有名人とか偉い人とかではない、何の罪もない、しかも神の御子がですよ?そのイエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死なれてでもあなたを取り戻そうとされた、救おうとされた。

 

神様は、このイエス様にあってすべてを分かち合ってくださったのです。昨日の箇所で、神様のものは全部あなたのものなんだよ、ということを神様が仰られていたことを分かち合いましたが、まさに神様はイエス様と共にすべてのものを私たちに与えてくださったのです。イエス様のいのちを身代わりにしてまで神様が救われた、そこにどれだけの恵みが、愛があるか想像できますか?この愛が、計り知れない愛を神様は私たちに注がれたのです。

 

彼らの心と思いの中心にはイエス様がいた。そして、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった」と。イエス様が私たちを乏しいことがないようにしてくださる。目に見えるところだけではなく、神様は魂まで乏しいことがないようにしてくださる。あなたを見捨てるのではなく、あなたの魂が食い尽くされる、乏しくならないように、イエス様のいのちを持ってまで救い出されたのです。私たちはここにあるように地所や持ち物を売って、ということはできない(導かれてすることは否定しませんが)かもしれませんが、私たち自身の心の地所を神様に明け渡すお返しする時、あなたの内に何にも代えがたい、神様の恵みが、愛が、あなたの内に満ち溢れ、心も魂も、あなた自身を乏しくさせない、神様があなたの全てを満たして下さるのです。昨日の分かち合いで見ましたように、神様の内に私たちが植えられ、神様の全てがあなたを生かして下さるのです。

 

神様は御子イエス様のいのちを私たちを取り戻す代価として差し出してまであなたを取り戻してくださった。この地所、神様のところに今日私たちは生かされている。あなたは神様のもの。これがどれだけすごい事かわかりますか?この天地万物を造られた神様が、今日、あなたを我が子として受け入れあなたを養ってくださり生かして下さっていることを。

 

↑の最後にバルナバという人が出てきます。彼についてはこの先の章で出てくる際に詳しく触れていきますが、誰が特別なんだ、ではなく、全ての人がこの神様の地所、神様の家に招かれている、この事をどうか覚えていてください。神様の名が置かれるところに神様は共におられる。私たちはこのイエス様のいのちにあって分け与えられた何にも勝る恵みに生かされ、今日も歩みたいものです。私たちは今日、イエス様の足元に私たちの心と思いを明け渡そう。そしてこのイエス様の恵みに生かされ今日も歩もう。