―わたしの愛する子:見捨てられた、のか?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した。私の相続地は、私にとって、林の中の獅子のようだ。これは私に向かって、うなり声をあげる。それで、私はこの地を憎む。私の相続地は、私にとって、まだらの猛禽なのか。猛禽がそれを取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。連れて来て、食べさせよ。多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ。荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての者には平安がない。小麦を蒔いても、いばらを刈り取り、労苦してもむだになる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見よう。主の燃える怒りによって。『主はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、【主は生きておられる】と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。―主の御告げ―』」

エレミヤ書12章7-17節

 

人から見向きもされなくなったら、これは本当につらいですよね。よく仕事などで、言われているうちははなだけど、言わなくなったらもう、終わり、と言われますよね。でも、ふと思うのですが、それで終わってしまう関係って何か哀しいですよね。薄っぺらいと言いますか、赦さない、赦さないまま終わり。それはつらい。でも、そこに和解があったら?しかもその和解をなすのが神様だったら?神様は驚くべきことに、私たちが神様から離れ好き勝手に生きている、その私たちを見捨てることもできるはずなのに、私たちを救うためならと御子イエス様を与えてまで救わんとされました。見向きもせず、そっぽを向けるのではなく、あなたに顔を向けられたのです。その御手を、御子イエス様のいのちをもって差し出されたのです。神様につなげてくださったのです。私たちはこの神様からもう離れてはいけない。神様が今日あなたに注がれている愛を受け、これに生きようではありませんか。神様はあなたの帰りを今日も待っているから。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを宗教改革とともに何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここで神様はヨシヤ王の時代に宗教改革が成された時に彼が見つけた律法の書、その中で神様は何を訴えていたのかもう一度語ります。それは「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」というものでした。彼らに呪いに生きるのではなく、神様の聖なる民・家族として生きてほしい、と神様は招かれるのです。

 

しかし、彼らは神様を退け、自分たちの思うままになる神を自分の神としていった。その結果彼らに災いを降す、と神様が宣言され、それに腹を立てた民はエレミヤを殺害しようとたくらみます。それにエレミヤは苦悩し悩むのです。人らしい。しかしそのエレミヤの思いを我慢しなさい、と神様は引き離すのではなく、答えてくださるのです。

 

神様は↑でエレミヤに「私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した。私の相続地は、私にとって、林の中の獅子のようだ。これは私に向かって、うなり声をあげる。それで、私はこの地を憎む。私の相続地は、私にとって、まだらの猛禽なのか。猛禽がそれを取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。連れて来て、食べさせよ。多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ」とエレミヤに語ります。

 

通常、聖書で「私」と、わたしを漢字表記する場合は人で、「わたし」とひらがな表記する場合は神様を指すのですが、以前漢字の場合でも神様の場合がある、ということを話しましたが、その一つがこの箇所です。ここの「私」は神様です。様は黙っている神様ではありません。他人事のように我が民、我が子の苦しみを見ている方ではありません。神様は同じように心を痛められる神様なのです。「私」が私が、と人でしかない私たちを、「わたし」なる神様が私を神様のものとして受け入れてくださる、これはなんという恵みでしょう。神様はエレミヤの心を、悲しみを知っている、その彼に神様は、「わたし(神様)の家を捨て」た民のようにではなく、「わたしの家」に帰るように、神様がそのうちに招き、養おう、と招き入れられる。猛禽類など荒れさせるものの中で苦しむのではなく神様の平安の内に招かれるのです。

 

エレミヤが自分のいのちが危険にさらされ、思い悩む様子が↑の前の箇所でありましたが、彼は一人のようで一人ではなかったのです。むしろ神様がいるよ、神様に帰ろうよ、どこか遠い存在ではない、エレミヤを、あなたをご自身、神様のものとして受け入れてくださった、くださるのです。神様の「家」に帰っておいで、と。神様が子として、神様の家族に迎え入れてくださる、と。

 

まあしょせんは日本語表記で「私」と「わたし」と使い分けて近いだけに感じるだけなのかもしれませんが、それでもどこか他人な3人称とかではなく、1人称という私たちに近しい関係をもって私たちに語ってくださっている。これはとても大きな話だと思います。神様が近い、神様が近くにいる、他の存在も息もしない偽神ではない、神様があなたの内にその御心を現して下さるのです、この天地万物を造られ、またあなたを愛し、あなたを造られた神様が。

 

もう少し神様がエレミヤに語られたこのことばに注目してみましょうか。神様はエレミヤに「私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した」と仰られています。このことばをよく見てみますと私の家を捨て、ということは、もともと私たちは神様のものだった、それなのに神様の家を捨て、神様の相続地、具体的には土地ですが、神様ご自身が日々与えてくださっている恵みを捨て見放してしまった、そのことを神様は心を痛めておられます。神様は「わたしの心の愛するもの」と仰られていますよね。神様はね、私たちを愛してくださっているんですよ?私たちに全てのものを備えてくださっているんです。神様はご自身の持つすべてを私たちに与えてくださっているのです。

 

聖書の中に放蕩息子の話というのがあるのですが、そこには兄弟が登場します。弟息子は都会にあこがれ、神様のいない世界の方がもっと楽しいだろう父親に財産をせがみ、出ていったのですが、彼は悔い改め最後は帰ってきます。そして彼を父は喜んで子としてもう一度迎え入れた様子が描かれているのですが、兄息子は勝手に出ていって好き勝手使って困ったから帰ってきた、その弟に、またその弟を息子としてもう一度受け入れた父・神様に腹を立て中に入ろうとしませんでした。兄は、父の家にずっといたのです。父・神様も、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と仰られた、神様のものは全部お前のものなんだ、それに彼は気づかなかったのです。父・神様は何の良いものも与えない、と文句を言う彼に、いや、何の良いものどころか、神様の家、神様の内にある全てのものを神様は与えてくださっている、注いでくださっている、というのです。この時お父さん・神様は続けて「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と兄息子に言います。それが神様の思いなのです。

 

神様がエレミヤに、神様の家から離れていったわたしの愛する子が神様の家から離れ、↑ではバビロンを指す猛禽(肉食系の鳥)に食いつくされていく事、私たち的には私たちという神様から与えられたいのち、肉が、様々な世のものたちに食いつくされていく事が神様は我慢できない。それを悲しまれているのです。「わたしの愛する子」が、と。自業自得だ、と突き放すのではなく、「わたしの愛する子」が、と悲しまれ、心を痛められるのです。いや、その神様のくださったこの恵みを食い尽くそうとしている世のものに気づかず、あれもこれも食い尽くす猛禽となってしまっている私たちの姿を悲しまれているのです。

 

神様は、先ほどの放蕩息子の話でも取り上げましたが、神様は、子である兄息子、また私たちといつも一緒にいてくださっているはずなのです。神様のものは全部私たちに食べられるように、与えられているのです。何の良いものを与えてくださらない神様なのではない、神様は私たちに、神様にある全ての良いものを与えてくださっている、自分が気にくわない、とそれをはねのけ、ついには自分の望むものを与えない神様など神様などではないと、今度は私たちが神様の家から離れてどうしますか。

 

どんなに世があなたを裏切ろうとも、神様はその心を留め、あなたが帰ってくるのを待っているます。あなたを食い尽くすものを神様が打ち砕いてくださる、神様がその剣をもって私たちに平安をもたらして下さるのです。

 

神様は↑で「見よ、わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。…わたしの名によって、『主は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう」と語られます。

 

私たちはもう引き抜かれてもおかしくない、放蕩息子に向かって息子たちはもう家に入れない、と言われてもおかしくはない存在だったのです。しかし、神様は憐れまれた。私たちを、もう見捨てられてしまった世の煩い、罪、サタンが跋扈するところからもう一度引き抜いてくださったのです。そして神様の家に接ぎ木してくださった、神様の家族へと迎え入れてくださったのです。私たちの罪を身代わりにイエス様が背負われ、十字架で罰せられ死なれたことによって。いや3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人は罪赦され、復活のイエス様の御からだに、神様の家族に接ぎ木された、神様の子として一つとされたのです。

 

神様は私たちにもう帰ってこなくていい、と門を閉ざすのではなく、神様は私たちを神様の家に、神様の門の内に、神様ご自身の内に植えてくださろうと今もその御手を伸ばされています。生きておられる主・神様が、この世の紛い物ではない、本物の神様の恵みをあなたに今日も注がれています。死んでいたものが生き返った、イエス様にあって私たちを本当の家族として、子として生き返らせてくださった神様が今日、あなたと共におられる。私たちは今日、どこに生きますか?誰を求め、何を食べ生きますか?私たちは紛い物や死んだものではない、「生きておられる」神様の恵みを食べ、これに生きよう。この命はイエス様の命がけの愛によって与えられた本物のいのちであり、本物の愛が今日注がれている。私たちは心から、「主は生きておられる」と告白し、私たちは生きた神様を求め歩もう。どんな時も。死をいのちに変える、生きたところに全てを変える神様に信頼し。