―知らなかったこと、本当に知ってほしい事― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。今、あなたは、彼らのわざを、私に見せてくださいました。私は、ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して、『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と計画していたことを、私は知りませんでした。しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見ることでしょう。私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです。それゆえ、主はアナトテの人々について、こう仰せられた。『彼らはあなたのいのちをねらい、【主の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように】と言っている。』それで、万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを罰する。若い男は剣で殺され、彼らの息子、娘は飢えて死に、彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。』」

エレミヤ書11章18-23節

 

「人生、地図があればどれだけ楽だろう。今はこっちに、そっちは危険だから、と知らせてくれるような…」。こういう嘆きを聴いたことがあるのですが(まあその話を全部書いていたらきりがないので大まかにまとめさせていただきました)、あります。いや、おられます。神様があなたの道であり、真理であり命となってあなたを導かれます。あなたを造られ、あなたを愛し、この世界をすべ治めたもう神様が今日あなたに語っておられるのです。ただ見ているだけ、一方的にしゃべるだけ的なナヴィではないあなたと一緒に進まれる、あなたのためなら命を惜しまなかったイエス様があなたと共に歩んでくださるのです。私たちはイエス様から離れてはいけない。イエス様が私たちをいのちの内へ、いや神様へと導いて下さるから。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここで神様はヨシヤ王の時代に宗教改革が成された時に彼が見つけた律法の書、その中で神様は何を訴えていたのかもう一度語ります。

 

それは「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」というものでした。彼らに呪いではなく神様の聖なる民、家族として生きてほしい、と神様は招かれるのです。しかし、彼らは神様を退け、自分たちの思うままになる神を自分の神としていった。その結果彼らに災いを降す、と神様が宣言されたのでした。

 

しかし、ここで大きな問題が起こります。なんと、エレミヤを通して神様が語られた言葉が気にくわないユダヤの民、こともあろうにエレミヤの出身のアナトテの町の人たちがナンとエレミヤの殺害を企てていることを神様は告げるのです。神様を信じているのに、神様の仰られていることを伝えているだけなのに、なぜ?と思うかもしれませんね。これ、クリスチャンでも起こることですが、神様を信じているのに何でこんなことが?と言って、下手をすれば信じている人を惑わせる、またはクリスチャンをやめる、とか言い始めたり。

 

実はエレミヤは迫害をその生涯受け続けました。ここで言われているように何度も殺されそうになり、幽閉されたり。しかし、エレミヤは決してやめることはなかった。神様を信じて何になる?ではなく、そのような世の中の道を歩むのではなく、その中に真ん中にがっちり敷かれた神様という道、いのちを彼は歩むのでした。

 

話を↑に進めて、エレミヤは「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。今、あなたは、彼らのわざを、私に見せてくださいました。私は、ほふり場に引かれて行くおとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して、『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と計画していたことを、私は知りませんでした」と語ります。

 

エレミヤはこの時、これから迫害を受けようとしている事、殺されようとされていることをまだ知りませんでした。しかし、神様はエレミヤに告げます。なぜ神様はこれを告げられたのか。単純に考えればエレミヤはいのちが狙われているんだから、危険に近づかないように気を付けてね、的なアドバイスに聞こえるかもしれません。神様は危険を伝えてくださる神様、ええその通りです。しかし問題はその危険を知った時にどうするか、です。自分が成すべきことを危険を知ったからやめるのか?それとも神様に信頼するのか?

 

エレミヤは預言者でした。彼の役割は神様のことばを伝えることです。神様はエレミヤに危険を知らせながら、だからもう行くのはやめようではなく、「神様が」彼と共にいることを教えたかったのです。

 

私たちの人生もいつも平穏無事、というわけにはいきません。時には危険な時も、死の谷を歩むような時もあるかもしれません。しかし、私たちは世の中の道を通るのではなく、神様が私たちと一緒にいる、神様が私たちの道となり、神様が開かれる道を歩ませていただけるのです。この世の不安定な、不確定な道ではない、誰も何も保証しない道ではない神様がいる、そのことを今神様は訴えるのです。

 

民は、エレミヤの命を狙っている人たちは「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」と言っていますが、彼らはエレミヤを殺せば彼のことばを封じることができる、と考えていたわけです。そして自分の都合の悪いことばも封じ込めよう、と考えるわけです。しかし彼らは何を求めているのか。むしろ私たちが神様の木から切り離される、生けるものの地から、神様のうちから断ち切られる、水から断ち切ることとなってしまうわけです。私たちは神様によって造られ、神様によって今日生かされている、その私たちがどうして神様から離れて生きられましょう。

 

もちろん世的にはある意味では生きているかもしれません。しかし、それは私たちが神様の開かれている道ではなく世の道を進んでいるだけにすぎません。どこに行こうと自由だ、と言われてしまうかもしれませんが、そこに神様のいのちはありません。何より神様から私たちが忘れられたらどうなりますか。私たちが神様を忘れて自分の好きな道に進んで最後何が残りますか?神様から忘れられ、神様から切り捨てられることほど悲しい話はないじゃないですか。この思い、あなたの内にありますか?神様を求めていますか?他に並ぶことも比べることもできない唯一真の神様をあなたは求めていますか?神様を他のどこかの宗教家や占いなどと比べていませんか?

 

神様はあなたに生きてほしい、悔い改めてほしいから、彼らに神様はエレミヤを遣わし語られたのです。エレミヤは「しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見ることでしょう。私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです。それゆえ、主はアナトテの人々について、こう仰せられた。『彼らはあなたのいのちをねらい、【主の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように】と言っている。』それで、万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを罰する。若い男は剣で殺され、彼らの息子、娘は飢えて死に、彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。』」と言います。

 

エレミヤ自身も神様に今この困難な時、思いと心を試されます。神様の正しいさばきを神様に委ねたのです。神様の道を歩むという事は彼の生涯を神様が全面的に覆ってくださっているという事です。神様ご自身が保証となる。上から何となく眺め、時々助けるのではない、彼の人生そのものが神様のものとなり、神様がそのうちにご自身を現して下さるのです。私たちの裁きではない、私たちが神様を気にいるか気に入らないかと裁くのでもない、神様の正しさがそこに現されるのです。

 

エレミヤも、アナトテの人たちもそれがいま問われているのです。神様の正しいさばき、神様の義が、神様ご自身を求めるか。神様の実がここになることを願うか。私の土地、私の人生に神様を植えて神様に自分を満足させる実をもたら「させるのか」、それとも神様の土地、神様ご自身の内に植えていただき、神様の結ばせて下さる実によって生きるのか。その先に「わざわいと刑罰」の年を願うか、それとも神様があなたを覆う命を覆う、神様の恵みの年月、季節を求めるか。

 

神様は驚くべきことに、ここでエレミヤにアナトテを捨てなさい、とは言わないんですよね。しかも持ちの時代には、エレミヤには捕囚となることが分かっていても、「アナトテの土地」を買うようにおっしゃるのです。それは、後の時代に神様がこの地を回復させること、この地を神様が忘れていないことをそこに示されているのです。神様の正しいさばき、神様を知ることによってもう一度彼らが回復することを何より願われている。このまま滅びゆくか、それとも神様の回復、正しいさばきを求めるか?世の支配、罪の呪いが彼らの内に、あなたの内に覆うことを求めるか?

 

アナトテはエレミヤの故郷、その故郷でエレミヤは迫害されますが、それでも神様はその地を見捨てなかった。そういえばイエス様もご自分の故郷では受け入れられず、そもそもご自身の地に来られたのに、彼らに受け入れられず迫害され、ついにはイエス様を十字架に架け殺してしまう。神様はそんな彼らを見捨てたのか。そうではなかったのです。神様はそれでもイエス様が迫害されることも知っている、殺されることも知っている、それでも彼らが救われ、生きるためなら、と生まれ故郷にも遣わされ、またイエス様の地であるこの地に来られた、遣わされ、その愛を現されたのです。そしてどんなに迫害されても、殺されそうになっても、彼らを愛することをやめず、彼らを捨てるのでもなく、神様のもとからその名を消さないために、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれたのです。屠られる子羊のように、ただ黙ってその身に私たちの愛ゆえに罰を引き受けられた。それはあなたに生きてほしいからです。そして3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は取り除かれ、神様の子とされる、永遠に神様に覚えられる、私たちは神様のものとされるのです。

 

イエス様は途中でやめることなくその愛を実行されました。あなたが神様の地、本来生きるべき、帰るべき古郷、神様の家族に帰れるように私たちの罪を取り除かれたのです。その今私たちは誰を求めるべきでしょう。私たちは本物の神様の愛を受け取っていますか?神様はあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった。このイエス様があなたと共にいる、これに勝るものがどこにあるでしょう。確かに私たちの歩みには様々な事があるかもしれません。しかし、その道はイエス様が命をもって開かれた道であることを忘れてはいけません。このイエス様にあって与えられる神様の他に並ぶもののない、完璧な愛が現わされることを忘れてはいけません。神様を求め続けよう。世が見せる道ではなく、神様の道を私たちはイエス様と共に歩み続けよう。イエス様が世の終わりまで、あなたを導き続けるから。その道は確かに神様につながっている。私たちは神様を求め続けよう。