―たとえ学がなくとももうどうにも止まらない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。彼らは言った。『あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。』そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。」

使徒の働き4章13-22節

 

ものごと、誰に従うのかはとても重要なことです。自分で都合のよさそうなものを選んで、それを語る人の意見だけ従う、ではいつか大変なことになります。仕事でもそうですよね。何が正しいのかを判断する必要があります。私たちは誰に従うでしょう?何を基準としていますか?神様はただ天におられるのではなく、あなたと共に歩むため、あなたをいのちの道へと導くため、御子イエス様さえ惜しまなかった、あなたを救うためなら御子イエス様いのちを惜しまなかった。このイエス様の命がけの愛が今日あなたの内にある。あなたは今日誰に従いますか。

 

さて、↑はイエス様の昇天後、約束されていた新しい助け主なる聖霊様が降臨され、教会が誕生した、それから少し経ったある日の話です。使徒ペテロとヨハネが宮に祈りに向かう途中、生まれつき足の萎えた男性と出会い、彼をイエス様の御名によって癒した、立ち上がらせた後、この奇跡を目撃し、またイエス様の救いの話を聞いたとき、そこに集まる多くの人が救われました。しかしイエス様を自分たちの立場を脅かすものとして忌み嫌っていた宗教家たちがこれに腹を立て、ペテロとヨハネを逮捕します。それでもペテロたちはイエス様の名前以外に私たちの救われるべき名は存在しないことをはっきりと聖霊様に導かれ語るのでした。これに勝るものは何物も存在しないのだ、と。

 

本物の核心を突いた言葉は私たちの疑問や不安を払しょくさせます。ここで「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった」とこの状況について記されていますが、確かにそうなのです。ペテロもヨハネも元漁師です。漁師という職業をあれこれ言うつもりはないのですが、ただどこか立派な神学校、彼らを捕まえた宗教家たちがついていた師がいるわけでもない、ただ彼らは聖霊様に導かれたまま語っただけなのです。イエス様の御名に従っただけなのです。彼らの知識とは違う。

 

彼らはじゃあ完全な無学だったのか、と言ったらそうではありません。一応ユダヤ人としてその律法に従っては生きてきました。ただ彼らにイエス様がお会いしてくださった、彼らをご自身のもとに引き寄せてくださったのです。そしてイエス様との生涯が彼らの全てを変えた。彼らは神様の喜びに、イエス様の十字架の愛に触れその救いによって変えられたのです。以前聖霊様の働きの中で「福音を理解する力」もその一つであることを分かち合いましたが(前の箇所で大胆に殉教を恐れずにペテロたちが語ったのも聖霊様の働きの一つ)、まさに私たちの心をイエス様の救いの喜びで満たし、その素晴らしさを知るのです。その喜びに満ち溢れるのです。

 

学がないと生きていけない世の中というのも何かな、と思いますが、最も大事なのはこのイエス様の御名に生きる事です。イエス様が私たちの全てとなってくださる、この名に勝るものはありません。宗教家たちだって本当は救いを求めていた、しかし認めたくないのです。自分たちの立場、自分たちの教え…しかしそこに神様はない、神様を求めていない。神様こそ、神様が私たちの救いのために与えてくださったイエス様を取り除いてどうして私たちは生きられるでしょう。彼らは自分たちの立場を気にしていますが、罪人ではなく神様の子として招かれた、その立場と言いますか、喜びに何が勝れるでしょう。むしろ神様の子とされたことがどれだけ素晴らしい事か。

 

彼らは「今後だれにもこの名によって語ってはならない」とペテロたちを戒めますが、とんでもない話。口先だけ神を知っている、イエスを知っている、彼らは確かに知識として知っているかもしれない、彼らはイエス様と出会っているから、しかしそれとイエス様の救いを受け取りイエス様の御名に生きるのとは違います。あなたの古いプライドも、悲しみも痛みも、思い煩いも、何より罪を一切取り除き新しくされる。そのためにイエス様は私たちの罪を身代わりに背負われ、身代わりに罰せられ、死なれたのです。そして3日目によみがえらせていただいたことによって、このイエス様の御名、十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人は、新しい命を受け、子の御名によって生きるものとされたのです。もう振り返る必要はない、このイエス様の復活のいのちが、聖霊様があなたの内に満ち溢れあなたを今日生かされるのです。

 

ペテロたちは脅す彼らに「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と答えます。あなたをイエス様の愛から引き離すことができるものはありません。神様の正しさが、あなたの前を行き、あなたを導かれる。どんなに世が嚇そうと、否定しようともできない神様の完全な御業が溢れるのです。これを止めるものは何もありません。私たちはこの神様に最後まで従おう。最後は私たちの決断です。聖霊様の促しを受け、あなたはどう生きますか?イエス様の救いを受け取った今、あなたはどう生きますか?