―プライドの塊か、愛の塊か― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「万軍の主はこう仰せられる。『よく考えて、泣き女を呼んで来させ、使いをやって巧みな女たちを連れて来させよ。』彼らをせきたて、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、いたく恥を見た。私たちが国を見捨て、彼らが私たちの住まいを投げやったからだ。女たちよ。主のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿に入って来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。語れ。―主の御告げはこうだ―人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる。主はこう仰せられる。『知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ―見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。』」

エレミヤ書9章17-26節

 

誇り、これを持つことはある意味で良いことですね、ある意味でそこに深い関心があるわけですから。逆にそれがプライドの塊となると、厄介なものとなるわけです。あなたは何を誇りとしていますか?誰を誇りとしていますか?ところで誇りって英語ではGloryという単語を当てているんですよね。栄光。すべての栄光は神様のもの、その神様があなたに注がれる愛に私たちはどれだけ信頼しているでしょうか。神様は御子イエス様を人として生まれさせてまで、そこまで愛を貫かれた、この愛の塊があなたに今日も注がれているのです。私たちは今日この神様の愛に帰りこれに生きよう。

 

さて、古代イスラエル王国において、北イスラエルは捕囚され、南ユダを何とか盛り返していたヨシヤ王が殺害されて後、エジプトの傀儡の王エホヤキムが王になったBC607年頃、神様がエレミヤを通して語られたのが↑になります。ここまで神様は私たちに悔い改める、心から神様を求め帰ることを訴えてきました。神様ご自身の、本物の恵みに立ち返るように。地にあるもではなく、まことの天の神様を求めよう、と。神様は見捨てようと思えば見捨てられる、でもあなたが滅びることほどの悲しみはない、と涙で溢れた神様はそれでも、倒れたあなたを起き上がらせ、新しい季節へ招かれるのです。心を尽くして思いを尽くして、いのちを尽くして神様を愛そう、心を尽くして愛される神様がいる、その神様の内に生きよ、と。

 

神様はそこで「よく考えて、泣き女を呼んで来させ、使いをやって巧みな女たちを連れて来させよ」とエレミヤに語られ、エレミヤは「彼らをせきたて、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、いたく恥を見た。私たちが国を見捨て、彼らが私たちの住まいを投げやったからだ」と語ります。

 

これは何とも言えないところなのですが、「泣き女」というのは当時の泣き屋というものです。まあ現在もある、ないし似たようなものがあると聞いたことがあるのですが、泣くことを商売としたプロの泣き屋なんだそうで、葬儀の時に泣く人がいることによって参列者の心を動かし、泣きやすくする、という役割があったようです。ちなみになんですけど、イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれていた頃、ラザロというイエス様を慕っていた人が亡くなった際、集まってきた人の中に、この泣き屋の人も来ていたそうです。そして、ラザロの兄弟マルタとマリヤのために集まってきた人たちが涙した、と。他にも会堂管理者のためにそのようなプロがいた、なんて話。

 

何か微妙な商売ですが、なぜ民が泣き叫ぶのではなく、泣き女という人を連れて来て哀歌を歌わせる必要があるのか。この泣き屋という性質を考えると、そもそも誰かに頼まれて泣かせる、それによってはじめて泣く、という事自体が不自然だと思いませんか?泣けないなら泣かないでいい、悲しくないのにわざわざというのに私はどうしても違和感を覚えるのです。

 

そう、問題は今嘆き悲しまなければいけない状況にある事に気づかない問題が民にある、とここで神様は指摘されるのです。バビロンによって破壊され、エルサレムには、人間の屍が転がっている、そのような状況が差し迫っている中、そんなことが起こるはずがないじゃないか、と偽預言者によって惑わされ、心移されてしまう。民に忖度し、民の機嫌を取ることだけを語る、まあどこかの政治家ではありませんが、そんなことがまかり通り民は気づかないのです。何よりその本質的な問題、これまで見てきましたように、神様から離れ、神様から与えられている本来のいのちを損なう、この問題に気付いていないのです。そこから本当にやがて屍のようになっていく、神様の霊を失い倒れていくその問題に気付かないのです。だから帰っておいで、と神様は訴えているわけです。

 

そう考えますと、プロの泣き屋を呼ぶように、と神様が仰られたのは皮肉なのでしょう。どんなに泣くプロであっても自身がこれを魂の底から知っていなければ神様の悲しみをどうして伝えることができるでしょう。神様に帰っておいで、と言えるのは神様の恵みを知ったもの、悔い改めたものだけです。プロという表現もある意味ではおかしな話かもしれませんが、あまたが水の入ったバケツのように涙で心もすべて涙でいっぱいになっているエレミヤの、神様のその思いに溢れるエレミヤの代わりにそんな泣き屋がなれるわけがないのです。もう神様は見捨てるから、だから代わりに泣き屋を立てるように言っているわけでもない、それほどに何にも代えがたい存在の彼らを、神様は悲しまれているのです。

 

神様は、誰かに促されて、それこそ泣き屋のようなものに動かされてはじめて泣く方ではありません。イエス様も、ラザロが死んだときに、泣き屋に心動かされ、促されて泣いたのではない、内臓がひっくり返るほどに悲しまれた。それは何となくの同情心からではなりえない、それはラザロのことを心から思っていたからこそ涙を流されたのではないでしょうか。自然と流れてくる涙は、そういうものでしょう?喜びの涙もある意味そうですが、その相手を思うゆえに流れるものです(まあ反射的に流れる涙もあるのですが)私たちの内にある感情が涙となって流れてくるわけです。神様はその悲しみの思いを、何とか届けたい、とエレミヤを通して、また泣き屋でも誰かを通してでも、なんとか伝えたい、立ち返ってほしい、生きてほしい、と訴えるわけです。

 

では何を具体的に、訴えているのか。神様はエレミヤを通して、その泣き女(屋)に向けて「女たちよ。主のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿に入って来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。語れ。―主の御告げはこうだ―人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる」と告げます。ここでは死が擬人化されて語られていますが、死が窓によじ登ってきて、高殿に入ってくる、もうTVとかならホラーそのもの、しかしそれは作り話ではなく現実として差し迫っている。しかも、道端で幼子を、広場で若い男を虐殺され捨て置かれてしまう、と。なんと恐ろしい話。なってから神様がほら言わんこっちゃない、と言っているのではなくなる前に神様は、これを受け止め死ではなく神様を求めるよう訴えるのです。

 

外から知らず知らずのうちに死が差し迫る、あなたをうち滅ぼし、倒れたままにする様々な世の情勢、思い煩い、罪、サタン、これらがあなたを打ち倒す、神様から引き離し、物理的にも霊的にも死へといざなおうとする、そのままでいいのか、と。

 

神様は、しかしそれを悲しまれるからこそ、生きてほしいからこそ、今訴えているのです。今気づき立ち返ってほしいと。神様は四方八方あらゆる手を尽くしてあなたを救うために訴え今耳を傾け、聴き、立ち返ってほしいんだと訴えるのです。神様が泣き屋に言わせるなんて普通では考えられない、でもそれでもあなたが生きるなら、とその手を尽くされるのです。そして神様の霊が、息吹が吹き入れられるとき、私たちは生き返るのです(このあたりの詳しい話はエゼキエル書の分かち合いの時に)

 

神様はなお「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ」と訴えます。私たちはどんなに自分の知恵や強さを誇っても限界があります。すべての知恵、強さ、富は神様から来ます。いや、その神様の知恵や力、富に何が勝ることができるでしょう。すべてのことは神様から発し、神様によってなり、神様に至るのです。神様の愛が、神様の息吹があなたに注がれる時、私たちは生きるのです。

 

神様は、その息吹をイエス様の十字架に現されたのです。地に恵みと公義と正義を現すため、私たちにその恵みを現すため私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。なぜ神の御子が、何の罪もないイエス様が身代わりに十字架にかからなければいけないのか、それは世的な感覚では愚かしい事なのかもしれない。罪人のために身代わりになるなんて。

 

しかし、そうではないのです。神様にとってはあなたをそれでも見捨てられない、あなたを愛するがゆえに見捨てられない、何の罪もないイエス様をあなたの身代わりとして罰して死なせてでもあなたに生きてほしい、それが神様の願いなのです。あなたという屍をもう一度生き返らせるために、イエス様は自らの命を身代わりに差し出されたのです。そして3日目によみがえられたことによって、同じ復活の恵みに私たちもあずかることが赦されるのです。この命の息吹が、復活のいのちが、神様の愛が私たちを新しくし、立ち上がらせてくださるのです。もう死んだ屍としてではなく、神様の息吹が私たちをたて上げ、立ち上がらせ、歩かせてくださる。私たちはこのイエス様の裂かれた肉・御からだと流された血潮があふれ、この霊によって今生かされているのです。

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神様の力です。この神様の究極の知恵、力、愛にあって今日私たちは生かされている。私たちは神様によって今日イエス様のうちにあるのです。イエス様は、私たちにとって、神様の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。そこまでして、神様はここで語られた「誇る者は主を誇れ」と言われた通りにしてくださるのです。これほどまで愛された神様を誇らずして誰を誇れましょう。私たちはプライドの塊を神様に崩していただき、神様の愛の塊、十字架に現されたこの愛に生かされ歩もう。この神様を誇る、いや誇らせていただき歩みたいものです。