―待っているよ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。たとい彼らが、『主は生きておられる』と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ。主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。そこで、私は思いました。『彼らは、実に卑しい愚か者だ。主の道も、神のさばきも知りもしない。だから、身分の高い者たちのところへ行って、彼らと語ろう。彼らなら、主の道も、神のさばきも知っているから。』ところが、彼らもみな、くびきを砕き、なわめを断ち切っていました。」

エレミヤ書5章1-5節

 

「反省」ができるかどうか、って大事ですよね。いや、反省しなければいけない時に自分の問題に気付いていない、という人もいますが。反省はある意味では変わるチャンスとなるわけです。まあ、口だけ反省しても「改め」なければ意味がないのですが、もし私たちが悪いことに気づいて、神様に悔い改める、向きを変える時、神様が私たちを引き上げてくださる、あるべきあなたへと変えてくださる。神様はあなたに本当の意味で生きてほしいのです。その恵みを溢れんばかりに注ぎたいのです。私たちは神様に帰ろう。神様があなたを待っておられるから。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していった言葉になります。エレミヤは世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて神様は語り始めます。彼らが背信の子と分かっていてもそれでも彼らが立ち返るよう、我が子よ、と訴えながらあなたを父なる神様の子へと回復させ、真の親子関係へと回復させよう、神様ご自身の内に帰っておいで、わたしがあなたを迎えるから、と訴えるのです。古い汚れを洗い聖めていただき、新しい命に生きるように、神様もその御翼で私たちを覆い守られ導かれるから、と。

 

なお神様はエレミヤを通して「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。たとい彼らが、『主は生きておられる』と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ」と語られます。そう、神様は願わくば滅びるのではなく、生きてほしい、と願っている、それがこの一言に込められていますね。

 

この箇所を見て思い出したのですが、ソドムとゴモラの町。悪の代名詞と言わんばかりに名の知れた町ですが、彼らは神様によって滅ぼされたのですが、その背後に神様の彼らへの憐れみ、彼らが立ち返ることを願っておられた姿がありました。

 

まず、ソドムとゴモラの町が滅びるよりも少し前、彼らのところにはイスラエルの父祖、アブラハムの甥のロトが住んでいました。神様を恐れるロトが町に住むことによって彼らが変わる一つのきっかけとなったのです。そんなソドムとゴモラの町がある時、戦争に巻き込まれ、ピンチを迎えます。その時、神様はどうせ悪を行っているんだし、救う価値などない、と見捨てるのではなく、同じく戦いに巻き込まれているロトの救出にアブラハムを向かわせることによってソドムとゴモラの町を結果的に神様は守られるのでした。このところに介入されていた神様に立ち返るチャンスが幾度となく彼らに与えられていたのです。

 

ところが喉元過ぎれば熱さを忘れ、彼らは神様のことなどわたしは知らない、となかったことにするのです。それこそ、↑で神様が「たとい彼らが、『主は生きておられる』と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ」と指摘しているように、口先だけは神様を求めている、知識としては知っている、しかしその実は自分たちこそ神、と言わんばかりの堕落した、人を人と思わず、神様をも恐れない生活が続いていたのです。国中が腐敗していたのです。

 

そこで神様はついにソドムとゴモラの町を滅ぼすことを決断されます。それは非常に大きな決断でした。しかしそれでも神様は(この時来ていたのは御使いの中に人となって生まれる前のイエス様もいらっしゃった)この時、「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ」と仰られました。神様はしようと思えばわざわざその目で見に行かなくとも裁きを降すことはできる、でも神様は「下って行って」、「見」、「知」ろうとされたのです。彼らに最後の悔い改めの機会を示されたのです。まさに、エレミヤに神様が命じた通りです。

 

これを知ったアブラハムは神様に「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」と執り成し願います。すると神様は「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう」と答えてくださりました。

 

アブラハムはそれでも続けて「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか」と訴え、やはり神様は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら」と答えます。

 

神様はしつこい、とは思わず、何度も何度も彼の話を聞き、執り成しを聴き、受け入れます。40人、30人、20人、10人、と続けて。神様はそれだけ見つけるなら、滅ぼすまい、と約束されたのです。アブラハムの執り成しの祈りもさることながら、神様は何でそんな少数のために、とは思わなかった。お怒りにもならず、滅ぼすまい、とそれでも約束してくださったのです。

 

しかし結果はどうだったか。御使いたちはソドムとゴモラの町に向かうも、そこには暴虐が満ちていて、旅人を襲い、とてもここには書けないことをしようと、町中の人がこぞって御使いたちに襲い掛かろうとしてきました。御使いはこれを退けました。そして、いよいよソドムとゴモラの町への裁きが始まります。アブラハムが願っていた、10人はおらず、いたのはロトと奥さん、娘2人(まあロト以外の3人も問題があるのですが)以外はいなかったのです。御使いは裁きの前にそれでも最後まで憐れみをかけ、「この中にあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」と告げられました。もし身内の者がいるなら連れてくるように、と。

 

神様は、裁きから免れる道を示されていたのです。予め語られ、またご自身の目で見て、何とか神様に立ち返ってほしい、と御使い遣わし、彼ら(人となって生まれる前のイエス様も)を見て神様に立ち返る機会を示されていたのです。しかしロトの他の親類もこの話を、いえ、神様ご自身を絵空事の空想話、そんなものは存在しないと言わんばかりにはねのけ、結局ロトと奥さん、その娘2人以外は滅ぶことになります。ただ、町に住んでいた頃が懐かしいと振り返った奥さんはこの裁きに巻き込まれ、塩の柱となってしまうのでした。

 

ソドムとゴモラの町の人たちは様々な罪の要素を持っていました。ここで上げてはきりがないほど。ただ、一つ言えることは、彼らは神様を神様と思わず、絵空事と考え、自分たちの好きなように、自分たちが正しいと思うことを行って生きていました。しかしそこには命はないのです。↑で神様がなぜ、エレミヤに「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者」がいないか見てくるように仰られたのは、神様は絵空事ではないんだ、本物なんだ、神様ご自身のメッセージを今地に行きめぐらせようとされているのです。彼らの絵空事にとらわれたいのちを、取り替えたいのです。本物のいのちに。神様の恵みに生きるものに。

 

予見者ハナニという人は神様に導かれ、「神様はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と語りました。神様は、神様はご自分と一つ、ご自身そのものを現したいのです。その御力を注ぎたいのです。あまねく全地を見渡して、その全地にその愛を行きめぐらせ、偽りや絵空事の世界に、空想にとらわれてしまっている私たちを新しくしたいのです。偽りではなく、本物、公義と真実を現したいのです。しかし彼らは神様を失い、本来受けられるはずの恵みを失い、痛いはずなのに、↑で「彼らは痛みもしませんでした」と言われているように、痛いとさえ思わない。神様から恵みをいただいていたはずのものたち、身分の高いと思っている人たちさえ、神様の恵みを思いもしないのです。

 

神様はそれでも裁きと、救いの宣告、彼らにそれでも愛を届けるため、いのち得てほしいと、御子イエス様を遣わされ、その間に住まわせ、本物の愛を彼らの内に、私たちの内に現されました。本物の神様の恵みを知らずさ迷い歩く民に、私たちにその福音を告げ知らせ、神様に立ち返ってほしい、と。しかし彼らはイエス様を自分を助ける召使程度にしか思わず、自分が都合が悪くなれば捨てる、裏切り、ついにはイエス様を十字架に架けたのです。それは私たちも同じではないでしょうか。しかし、それでも神様は私たちを見捨てず、むしろイエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。私たちの身代わりに罰せられたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として受け入れてくださるのです。御子イエス様のいのちをもって、神様の完全なる愛を全地に行きめぐらせ、絵空事ではない、本物の愛を注がれた、本物の救いがここに実現したのです。

 

神様は今日もあなたに本物のいのちを、救いを受けてほしいとあなたを待っています。その愛は今日も注がれています。あなたは今日、何を見ていますか。誰を求めていますか。この神様の愛を知った今、もうあなたを虚しい絵空事、空虚なものに支配させてはいけない。神様の恵みがあなた自身を満たし、いのちあるものに変えてくださる、この神様を今日求めようではありませんか。それらの古い霊に支配させるのではなく、神様の霊があなたを覆い、満たし、聖めていただき、神様のくださった本物のいのちの内を歩ませていただこうではありませんか。そしてあなたの周りにもこの愛が、溢れるように執り成し祈り、また仕えるものでありたい。全地が神様の愛で満たされることを願い。