ちょっと、誰かが沈んでいるよ! | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ちょっと。だれかが沈んでいる!」

 

絶叫が、プ-ルサイドに響き渡りました。近くにいた男子の青年二人が、飛び込みました。そして、ぐったりとした女性を引き上げました。

 

日赤の救助員の資格を持つぼくは「毛布を!119番を!」と叫ぶと、その女性のそばに走りました。

 

最初の人工呼吸が生死を分ける、一秒でも早く、最初のひと吹きを。自分の顔を女性の顔に近づけ、その口を開けて、マウスとマウス、口と口で息を吹き入れようとしたのですが、一瞬、あろうことかためらいを覚えました。

 

そのとき、彼女の顔に、かすかな動きがあるように見えたので、両手でパンパンと、その顔をたたきました。すると、どうでしょう、顔を左右に動かしながら、彼女がかすかに目を開け、そして息を吹き返したではありませんか。

 

歓声と拍手が沸き起こりました。ぼくはたぐいまれな体験を逃し、主役になり損ねましたが、大いに満足でした。ほどなく、けたたましいサイレンとともに、真っ赤で大きな消防はしご車が到着しました。そして彼女は大事を取って、病院に運ばれて行きました。数時間の後、元気に戻ってきた彼女の説明はこうでした。

 

「気がついたら、足の立たない深いところにいました。おぼれかけたので、私はすべてを神さまにゆだねました。両手を組んで、息を止め、そのままプ-ルの底に沈み、そして気絶しました。」

 

それはないでしょう。ひとつ間違えば死んでしまうのに。「泳げないが、不可能はない」と信じて、叫ぶだけ叫び、もがくだけもがいてくれたら、すぐに周りが助けたのです。

 

神様にゆだねるのは良いことですが、やれるだけのことを必死でやりながら、あるいは、やった後のことでしょう。がんばりや努力なしには、何事も成功しません。突如、与えられる成功に意味は薄いでしょう。祈りつつ、ゆだねつつ、限界までの努力と、苦闘と、献身にこそ、信仰を持って生きる人生の、尊い意味があるはずではないでしょうか。

 

巡回伝道者 岸 義紘師(家庭伝道月刊誌「ぽぽ」)より

 

*これは非常に悩ましい話なのですが、

読ませていただいた時の感想は、例えば、テスト勉強をしないで、明日はテストでいい点数が取れますように、と祈るようなもの。そうじゃないと補習、卒業が…なんていっているようなものです。ぎりぎりになって助けてください、の前に

泳げないなら泳げないなりに、プールに入る前、一切お守りください、と祈ってから入る、テストのたとえなら、十分に準備できるよう時間管理できるよう、頭が回るよう助けてください、と祈り準備する必要を感じます。

 

もちろん岸氏を神様が備えてくださったのは幸い。

でも、いざとなったら助けてください、とご利益的な関係は残念です。

 

ある国で、信仰があれば何でもできる、と、聖書で湖の上をイエス様が歩かれ、ペテロを招き歩かせたように、自分たちにも信仰があればできる、と仲間数人で手を繋いであるきだし、溺れ、召されていったそうです。

 

この例を見てもそうなのですが、普段からの神様との関係をしっかりと持っていたいものです。試す試さない、の話ではない、ご利益の話でも神様はないのです。

普段の神様との膝と膝を突き合わせた親しい関係の中に、私たちは一つ一つ導かれていきます。あとはよろしく、ではなく、いつも共に歩んでください、と祈りたいですね。