「ちょっと。だれかが沈んでいる!」
絶叫が、プ-ルサイドに響き渡りました。近くにいた男子の青年二人が、飛び込みました。そして、ぐったりとした女性を引き上げました。
日赤の救助員の資格を持つぼくは「毛布を!119番を!」と叫ぶと、その女性のそばに走りました。
最初の人工呼吸が生死を分ける、一秒でも早く、最初のひと吹きを。自分の顔を女性の顔に近づけ、その口を開けて、マウスとマウス、口と口で息を吹き入れようとしたのですが、一瞬、あろうことかためらいを覚えました。
そのとき、彼女の顔に、かすかな動きがあるように見えたので、両手でパンパンと、その顔をたたきました。すると、どうでしょう、顔を左右に動かしながら、彼女がかすかに目を開け、そして息を吹き返したではありませんか。
歓声と拍手が沸き起こりました。ぼくはたぐいまれな体験を逃し、主役になり損ねましたが、大いに満足でした。ほどなく、けたたましいサイレンとともに、真っ赤で大きな消防はしご車が到着しました。そして彼女は大事を取って、病院に運ばれて行きました。数時間の後、元気に戻ってきた彼女の説明はこうでした。
「気がついたら、足の立たない深いところにいました。おぼれかけたので、私はすべてを神さまにゆだねました。両手を組んで、息を止め、そのままプ-ルの底に沈み、そして気絶しました。」
それはないでしょう。ひとつ間違えば死んでしまうのに。「泳げないが、不可能はない」と信じて、叫ぶだけ叫び、もがくだけもがいてくれたら、すぐに周りが助けたのです。
神様にゆだねるのは良いことですが、やれるだけのことを必死でやりながら、あるいは、やった後のことでしょう。がんばりや努力なしには、何事も成功しません。突如、与えられる成功に意味は薄いでしょう。祈りつつ、ゆだねつつ、限界までの努力と、苦闘と、献身にこそ、信仰を持って生きる人生の、尊い意味があるはずではないでしょうか。
巡回伝道者 岸 義紘師(家庭伝道月刊誌「ぽぽ」)より
*これは非常に悩ましい話なのですが、
読ませていただいた時の感想は、例えば、テスト勉強をしないで、明日はテストでいい点数が取れますように、と祈るようなもの。そうじゃないと補習、卒業が…なんていっているようなものです。ぎりぎりになって助けてください、の前に
泳げないなら泳げないなりに、プールに入る前、一切お守りください、と祈ってから入る、テストのたとえなら、十分に準備できるよう時間管理できるよう、頭が回るよう助けてください、と祈り準備する必要を感じます。
もちろん岸氏を神様が備えてくださったのは幸い。
でも、いざとなったら助けてください、とご利益的な関係は残念です。
ある国で、信仰があれば何でもできる、と、聖書で湖の上をイエス様が歩かれ、ペテロを招き歩かせたように、自分たちにも信仰があればできる、と仲間数人で手を繋いであるきだし、溺れ、召されていったそうです。
この例を見てもそうなのですが、普段からの神様との関係をしっかりと持っていたいものです。試す試さない、の話ではない、ご利益の話でも神様はないのです。
普段の神様との膝と膝を突き合わせた親しい関係の中に、私たちは一つ一つ導かれていきます。あとはよろしく、ではなく、いつも共に歩んでください、と祈りたいですね。