―心の皮を取り除く― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『イスラエルよ。もし帰るのなら、―主の御告げ―わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。あなたが真実と公義と正義とによって【主は生きておられる】と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。』まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。『耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。』」

エレミヤ書4章1-4節

 

心を閉ざす、殻に閉じこもる、何でもかんでも包み隠さずというのがいいのかは別として、そうした状態になることがありますよね。そうなってしまうと本当につらい。内側に痛みや傷が残ったまま、という事もあります。ただ、そのような皮をも取り除いていのちある関係に招かれる方、神様がいるのです。あなたをもう一度聖め、回復させてくださる方が。本来あるべきいのちの関係へと招いてくださる方が。私たちは私たちに心を開いてくださった神様に帰ろう。そしてこの神様と生きようではありませんか。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していった言葉になります。エレミヤは世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて神様は語り始めます。彼らが背信の子と分かっていてもそれでも彼らが立ち返るよう、我が子よ、と訴えながらあなたを父なる神様の子へと回復させ、真の親子関係へと回復させよう、帰っておいでと訴えるのです。

 

なお神様はエレミヤを通して「イスラエルよ。もし帰るのなら、―主の御告げ―わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う」と語られます。

 

もし帰るのなら…わたし(神様)のところに帰って来い。もし帰ってくる気があるならとか、そういう話ではなく、神様は「真実と公義と正義」溢れる関係に、神様の祝福溢れる関係に招かれているのです。↑の前の箇所で神様が、好き勝手に離れていった民を、それでもご自身の造られた大切な子だからと、真の親子関係の回復へと、神様との関係へと招かれたように、神様はその真実の愛を尽くされる神様なのです。

 

私たちに神様は帰る場所を用意してくださっている。わたしのところに帰っておいで、と。これはなんと感謝な事でしょう。どこにでも好きなところに行けば、と突き放すのではなく、神様はそれでもあなたを迎える神様。よく何かあって疲れた時、田舎に帰る、実家に帰る、なんて話をしますが、それはあたたかく迎えてくれる人がいるからこそ意味があること。神様は疲れ果てた私たちを迎えてくださる方なのです。

 

ある人は、「わたしのところに帰って来い」という言葉に、なんでそんなことを言われなければいけないの?と思うかもしれません。しかし神様は、あなたの造り主、神様、あなたの父となられる方、親が子の心配をしないでいられますか?我が子が危険にさらされるのをを黙ってみてられますか?むしろ、帰ってきていいんだよ、と居場所を用意してくださっている恵みがこの言葉に溢れているのではないでしょうか。

 

神様はエレミヤを通して「もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない」と語られますが、イエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と仰られていたことを覚えているでしょうか。

 

イエス様は私たちが様々な重荷を負っている事を知っている、罪を持っていることも知っている、それでも招かれているのです。イエス様があなたのくびきを一緒に負って進んでくださる。歩んでくださる。魂に安らぎを与えてくださるのです。

 

イスラエルの民はこの預言が語られているヨシヤ王の時代以降ひたすらに堕落の一途をたどり、バビロン捕囚へ一気に向かっていく形となります。彼らが頼りとしていたものは彼らを裏切り、彼らを助けることなく、かえって捕囚へと向かわせる。自分はこうした方がいい、もっと成功できる、自分らしくなれると思っていたところで、結局とらわれてしまった。魂までも、神様の与えてくださっていた本来の恵みから引き話されてしまっただけだったのです。しかし神様は、そうではなく魂に安らぎを得させたい、本来の神様の恵みの中に生きてほしい、帰っておいで、と招かれているのです。どうでもいいあなたではなく、大切な我が子ゆえに、あなたが失われることを神様は良しとはできない。だからこそ、「わたしのところに帰」っておいで、と招かれるのです。

 

その時、↑で「あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う」と神様が仰られていることがまさに神様ご自身が成し遂げてくださるのです。このことば、「互いに」と神様は仰られていますよね。それは一人では成し得ないことなのです。そもそもの話が祝福の基は神様なのですから、神様が祝福しない、と言われたらそれまで。しかし、神様に帰ってくる彼らを「生きておられる」主・神様があなた方を、あなたを祝福されるのです。真実と公義と正義、ちょっと難しいことを要求されていると思うかもしれませんが、そうではなく、心から、と言ったらわかりやすいでしょうかね。私たちの心を注ぎだす、霊とまことをもって神様に立ち返る、その時、神様の、生きておられる神様の恵みがあなたの内に溢れ流れる。不誠実な、不確かなものではない、神様の義があなたの内に成されるのです。互いに祝福し合うほどの喜びがそこに現されるのです。

 

神様は「『主は生きておられる』と誓うなら」と仰られていますが、あなたは今日神様を生きていると確信していますか?それとも諦めていませんか?しかし神様は生きておられる、死ではなくいのちを得てほしい、魂に安らぎを得てほしいと願うからこそ、神様の息た働きの中あなたに歩んでほしい、生きてほしいと願うからこそ、あなたを招いているのです、帰っておいで、と訴えるのです。「主は生きておられる」とあなたは確信していますか?この生きた神様の内に生きた、心からの捧げもの、私たち自身を神様にお返しして、新しくしていただきたいものです。古いものが取り除かれ、新しい神様の喜びに神様が満ち溢れさせてくださるから。

 

なお神様はエレミヤを通して「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」と語られます。

 

神様はここで割礼を受けるように、と仰られています。この割礼というのは、ようするに男性のシンボルを包む皮の先端部分を取り除く、ということです。これはイスラエルに限らず、中東でも行われていたことで、あちらの気候を考えると、そのままにしておくことは不衛生なのです。ちなみにこれは相当痛いそうで、この割礼の痛みのためにしばらく動けなくなるほどです。

 

ただ、神様は確かにエレミヤの時代だけではなく、イスラエルの父祖アブラハムの時代から割礼を命じられ、その後もイスラエルの民はこれを守ります。かつて神様がアブラハムに「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである…」と仰られたように。

 

神様の民としてのしるしとして彼らはそれを行っていました。ただ、それが形骸化されていたのです。とりあえず形だけ信じれば、とかそういうのと同じだったのです。割礼は施していた、でも実際は神様の契約の民、神様の恵みを求めていなかった。美味しい汁だけ吸えればいい、そんなところもあったのかもしれません。

 

ただ、「契約」というくらいですから、一方だけが履行するというわけではなく、神様もその約束を果たされ、祝福してくださるのです。神様の恵みが民の内に、一人一人の内に数えきれないほどに増え広がるのです。それは、一部の人だけ受けられる特権ではなく、願わくば全ての人に、と、その割礼の範囲をしもべたちに至らせたように、神様は願わくば神様の恵みをすべての人に注ぎたい、と願っておられるのです。断ち切られることのない永遠の契約、恵みが新しく彼らを覆うように。

 

そう、肝心なことは物理的に割礼を施せばなんでもしていいというわけではないのです。むしろ神様はこれを問題にしているのです。見た目の割礼は施しても、心の割礼、古い皮を取り除いていない、神様に心を向けていない、そのような状況にあることを指摘されているのです。古い私たちを覆う皮、世の価値観、習慣、自分の好きなように生きるという価値の皮、罪の皮、それらに覆われて私たちが疲れ果てていく、汚れていく事を神様は良しとせず、むしろ神様の恵みの皮、命の皮で新しく覆いたいのです。その恵みにあなたを招きたいのです。

 

形だけ割礼、↑で言われているように開墾して放置していれば実は結びません。茨が生えてくることもあるでしょう。結局元に戻る、世の勢力、罪の誘惑、様々な思い煩いがあなたを覆ってあなたの魂を奪っていくだけです。しかし、神様はそのあなたのうちにイエス様のいのちの種をまかれたのです。あなたの古い、滅びに至る皮を取り除くため、割礼の痛みを御子イエス様が負われた、私たちの罪の身代わりに全ての重荷を背負い、十字架に身代わりにかかられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、新しい契約、神様の子として迎え入れてくださる、永遠のいのちへと招かれるのです。そこから新しいいのち、神様の恵み、多くの実を神様が実らせてくださるのです。あなたの堅くなった土地を開墾してくださり、日々あなたを養い導かれるのです。

 

私たちは神様に今日帰ろう。閉ざした心を開いて、いや神様に開いていただき、生きた神様が招かれている、神様の生きた恵みの内を歩ませていただこうではありませんか。このいのちをもう、古い皮で覆わせてはいけない。茨で覆わせてはいけない。神様が実らせてくださるそのご計画に、御心に私たちは信頼し歩もうではありませんか。このイエス様が命がけでくださった新しい命、愛の前に世の茨は立ちふさがることはできません。私たちは日々神様の恵みによって開墾される命の内歩もう。さらに神様の恵みがここから広がり、「主は今も生きておられる」という喜びの声に満ち溢れる日が来るよう祈り、また証し、仕え歩もうではありませんか。