―癒された親子関係― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。―主の御告げ―一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。』『今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります。しかし、私たちの若いころから、バアルが、私たちの先祖の勤労の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしました。私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。』」

エレミヤ書3章19-25節

 

親しい人に裏切られた時、これは相当つらいですね。親しいと思っていたけど、実はそうではなかった(自分が思っていただけ)なんてことも。これは私も何度か経験をしていて、かなり心を痛めた覚えがあります。まあ一時的な感情でそれをされる、なんてこともあるのかもしれませんが。ただ、人はあなたを裏切っても神様はあなたを裏切らないという事を忘れないでください。神様はあなたが生きるためなら、あなたが命を得るためなら、御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどにあなたを愛された、その愛があなたを今日覆っているのです。だからもう私たちは神様から離れてはいけない。今日、神様から頂いたこの命を喜び、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していった言葉になります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて神様は語り始めました。彼らが背信の子と分かっていてもそれでも彼らが立ち返るよう、訴えるのです。彼らに命を得てほしい、と。

 

神様はなおエレミヤを通して「『わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。―主の御告げ―一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」と語られます。

 

よく聖書の中でわたしという一人称を「わたし」と「私」で使い分けられているのですが、「わたし」という場合、これはほぼ神様と考えて良いです。「私」がそれ以外の人が使う一人称、まあたまに神様に当てはまる箇所があるのですが。ここで神様は、↑の前で背信の子、と言われていたイスラエルの民を、息子と表現し、また父と呼ばせることをゆるされています。

 

そうなんです。神様の本来思っている私たちとの関係は、まさに親子関係。祈る時にも「天の父なる神様」などと祈り始めますし、イエス様も祈る時にはこう祈りなさい、と教えられたその最初のことばは、「天にいます私たちの父よ」でした。どうしても宗教的な視点で見ると、神様と私たちはものすごい遠い関係に見られがちなのですが、神様はとても親しい、近しい関係を私たちと結んでくださっているのです。これは本当に大きな恵みです。

 

なんで父と子なのか、といいますと、いうまでもありません。神様が私たちを造られたからです。アダムやエヴァだけではないですよ?神様は私たちを造られたのです。古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」と詩に書き残します。

 

どうして胎内の時のことを知っているの?とある人は言うかもしれませんが、冷静になって考えればそのプロセスの中でこのからだになることは考えられないですよね、誰かがその手でつくり上げなければこの姿にはなりえません。それができるのは神様だけ。あなたに魂を与える、吹き込むことができるのも神様だけ。ダビデはそれを実感していたのか、もしくは神様に導かれて知ったのか、我が子の生まれてくる様子を見て知ったのか。

 

いずれにしても、私たちは偶然存在している、できた存在ではなく、神様の手によって造られた、神様にとって高価で尊い、愛された存在なのです。生まれる前から私たちを神様は見て、最善の計画を立ててくださっている、用意してくださっているのです。そして生まれた後も、後は自分で頑張って、ではなく日々養い導かれて、今日私たちがあるのです。「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」というほどの神様の御思いを、愛をあなたに神様は注ごうとされている、それほどの関係を神様はあなたと結びたいのです。

 

しかし、私たちは神様から離れてしまった。神様は↑で、「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思」われていることを語られていますが、神様はかつてイスラエルの民に肥沃な土地を与えた、乳と蜜の流れる地、神様の恵みが、神様ご自身から注がれるその地に住まわせていただいていたのです。いや、そもそもの話がですよ?この天地万物を作ったのは人間ではなく神様です。そこに神様が住まわせてくださっている、神様がその恵みを注いでくださっているのです。

 

イエス様の12弟子の一人、ヨハネは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」と、聖霊様に導かれて福音書を書き始めます。イエス様をことばと表現しているのですが、すべてのものは神様によって造られ、これによらないものはないと言います。すべてのものに神様はその恵みを注がれる、その恵みを私たちにも与えたい、注ぎたいと神様は思っておられるのです。あなたのいのちが神様の麗しさで覆われることを願われているのです。

 

だからこそ、「一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声」が上がるような状態を神様は嘆かれるのです。本来の親子関係のような、喜びの声に、楽しい笑顔に満ち溢れることが何よりの望みなのではないでしょうか。神様は何もしないのではなく、神様は↑の最初で「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようか」と考え、その御心を現される方なのです。愛を現す、その言葉を実行に現される方なのです。

 

神様は我が子にゆずりの地を授けたい、神様のいのち溢れる地、いのちをあなたに注ぎたい、この神様の訴えをあなたはどう受け取るでしょうか。イスラエルの民は↑で、「彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れた」という状態で、神様は嘆かれます。しかし神様はそれでも、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」彼らを癒そうとその御手を伸ばされるのです。実際に、彼らが捕囚されてもその地に預言者を置き、彼を通して彼らを守り、またバビロンの中枢にイスラエル人の宦官を置くことによって、民を民族滅亡の危機から救うなど、神様は驚くべきことをされます。神様は、私たちの魂が奪われることを良しとはされず、何とか救い出そうとされる、そしてついには、70年後に確かにバビロンから解放し、彼らをもう一度回復させる、癒されるのです。

 

1世紀の伝道者でかつてはイエス様を迫害し、教会の黎明期、クリスチャンを迫害していたパウロという人がいたのですが、彼はある時イエス様に出会います。彼のその行いを裁かれるのかと思ったら、なんと彼を悔い改めに導き、赦されるのです。その彼は「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」と手紙に書き残しました。

 

神様は私たちが何か良いことをしてからまあ赦す、とかそういうことを言われたのではなく、まず愛された、まず裏切る私たちを、好き勝手に生きる私たちを赦すため、御子イエス様にまずその罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださる、まさに究極の親子関係の中に招き入れてくださったのです。罪人としてではなく、子として。本来の神様との親子関係、罪によって失われた私たちを、私たちの魂を癒される、そのいのちの息吹を私たちの内に注がれるのです。この和解の内に喜びが、神様の与えてくださる恵みが満ち溢れるのです。

 

御子イエス様が結び回復されたこの親子関係がいかほどか。私たちは↑で神様の愛に触れたエレミヤが「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります」と告白するように、この神様に今こそ立ち返ろう。主なる神様が、あなたの父となってくださった神様が、罪人出会った私たち、あなたに「父」と呼ぶことを赦された、その神様が今日あなたに注がれる麗しい恵みを求め歩もう。あなたの内に、あなたのさらに周りに溢れ、神様の栄光が溢れることを祈り。裸となった丘が今こそ、神様の恵みで覆われますように。