―あなたの父は?あなたは誰の子?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちがそうである。彼らは木に向かっては、【あなたは私の父】、石に向かっては、【あなたは私を生んだ】と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、【立って、私たちを救ってください】と言う。では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ。なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。―主の御告げ―…』」

エレミヤ書2章26-29節

 

思春期になると、親と一緒にいるところを見られるのを恥ずかしがる傾向がある(昔はそうだったのかな?)気もしますが、先日息子が遠足に出かけた際、ちょうど私も職場に向かう途中で見かけたので、声をかけようかな、と思ったのですが、子どもが恥ずかしがるかもしれない、と思って声をかけずにいました。家に帰ってからそのことを話すと、ぜんぜん?話しかけてくれた方がうれしかった、って。嬉しいね。いつまでもそんな親子でいられたらな、と思いつつ。では、私たちと神様の関係はどうでしょう。神様は私たちを造られた、知ってます?神様はあなたを愛し、その恵みを注がれます。神様を求めることは決して恥じではなく、そこに喜びが広がるのです。私たちは神様を求めよう、本物の愛、命に生きようではありませんか。

 

今日の分かち合いの前に、昨日書き忘れていたのですが、昨日の箇所で「たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている」とありましたが、それは私たちでいうならきれいにするための重曹のようなものなんだそうです。そのようなものでも、洗えない。でも神様の命がけで流されたイエス様のいのち、血潮によってこそ洗い聖められ、いのちあるものとされる、ということです。書き忘れ、失礼いたしました。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことになります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始め、幻を見せつつ、私たちに罪のくびきから離れて、神様とのハネムーン、永遠の婚姻関係、神様の家族に立ち返ることを訴えます。

 

神様はなおエレミヤを通して「…盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちがそうである。彼らは木に向かっては、『あなたは私の父』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください』と言う。では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだと語られます。

 

これ、多くの日本人、いや人が持っている感覚なのではないでしょうかね。八百万の神、と言ってなんでも神に仕立て上げる人間。価値観も、自分自身さえも神のようにふるまうことだってある。「彼らは木に向かっては、『あなたは私の父』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ』と言っている」と神様は指摘していますが、木や石だけではない、様々なものを自分の神として祀り上げ、これに自分に利益をもたらすよう求める。でも、利益をもたらさないからと別なものに走ったり、物足りないからと言って様々な占いや、パワースポットのようなものを求め歩く。

 

でもここで冷静になって考えてほしいのですが、自分で自分の望むものを叶えさせようとするってどうなのでしょう。そこにいのちはあるのだろうか。いつも私はこの手の話を聞くたびに違和感しかわかないのですがそんなところに何の喜びがあるのだろう。まあ、それらは生きていないからあなたに答えられないし、あなたが何か良くなった「気がする」と思うだけで実際は変わらない。そしていざ困ったら神様助けて、神様がいるならどうして助けてくれないんだ、と不平不満を漏らす。これが人間の弱いところと言えば弱いところですが、罪な部分なのです。

 

でも神様はあなたの操り人形ではないですよね?そもそも神様があなたを造られた、神様が神様なのであり、主なのです。私たちは何者だというのでしょう。しかし神様はそれでもあなたを助けようといつも語られ、御手を伸ばされている、でも自分に都合のいいことを求める時にしない神様を神様とは認めないのが私たちなのではないでしょうか。

 

神様は「実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください』と言う。では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ」とここで仰られていますが、今まで頼っていたものがいざという時に答えないことに気づく時、私たちはどうなるでしょう。↑で指摘されている、恥じ入る、までいかなくとも、自分がそんなことに自分の時間を、いや自分を費やしていたことが、ダメージとなり、傷となる。あれもこれも私たちの周りにはあなたを持ち上げる様々なものがあっても結局それらが助けないことを知ると、自分を失ってしまいます。結局それは生きていないからあなたを救うことはできないのです。

 

話は逸れますが、占いとかありますけど、あれはまず悪霊が働いていることを忘れてはいけないのと、その占いの本は自己暗示でそんな気がする、と思わせるもの、ないし統計学にすぎません。何よりその占い、ないし自己啓発的な本はあなたのために書かれたものではありません。あくまでその人がたまたまうまくいった、それが本になっているだけなのです。多少の「精神的安心」を「一時的に」得た「気にな」っても、それはあなたをいつまでも助けるわけでもなく、違うことが起これば結局何もすることはできませんし、救うことはできません。

 

かつての詩人は、神様と偶像の違いを自ら体験しながら、それこそ↑で指摘されているように悩みながらも、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ」と詩に残しました。

 

「彼らの神は、いったいどこにいるのか」この問いかけは私たち自身も持ちます。いったい神はどこにいるんだ、自分を助けてくれないじゃないか、と。それこそ、↑で神様と争うように、自分を何とかしろ、と言わんばかりに。しかし私たちが自分にこれをしてほしい、と叶えそうなものを探し、それを神という名の偶像に仕立て上げたものは、「偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない」のです。神は何もしてくれない、ではなくそもそも偶像という神はいないし、神様は他にいません。

 

この詩人がうたうように、神様は、私たちの神様は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる、この天地万物を造られた神様が、あなたを造られ、神様の好き勝手にする、のではなくその恵みを、愛を、被造物たるあなたに注がれるのです。私たちがああしてください、こうしてください、と思うことをはるかに超えた、天よりも高いその御思いを、愛をあなたに注がれるのです。偶像、あなたが拠り所とする神様以外のものはあなたの心を搾取し、奪い取りますが、真の神様はあなたに与える神様、その恵みを惜しむことなく注がれる神様なのです。神様の業をあなたに成される、あなたを形作られる、日々あなたをその恵みによって刻まれ、生きたものとされるのです。その神様こそ私たちの助けであり、盾なのです。

 

神様は神様を「恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方」、天は、主の天なのです。神様があなたの内に恵みを注がれ増やされる、神様のいのちに満ち溢れさせてくださる、天地を造られた、あなたを造られた神様が今日、あなたを祝福される。それはいかほどばかりか。それがあなたの周りにある者や、あなたが見繕った者がどうして勝ることができるでしょう。それを造られたのも神様ではありませんか。

 

背を向けて、顔を向けなかった私たちに、神様は背を向けず、あなたを救わんとされました。私たちが神としてきたものに失望し、自信を失い、息のないものになってしまった、そんな私たちをもう一度回復させるため、私たちの死に行く魂を、疲れ果て倒れる私たちを、罪の息吹、世の霊によって支配されて神様から与えられた本来の命を失ってしまった私たちを救うため、神様は御子イエス様に、私たちのために、それら一切を背負わせ、十字架に架けられ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

本来見捨てられ、破棄されてもおかしくない私たちを、御子イエス様を身代わりにされてでもあなたを救われたのです。そこに神様が込められる愛はいかほどか。このイエス様にあって私たちは新しい命をいただく、そこに神様の霊、聖霊様が注がれ、新しいものとされるのです。神様は↑でいうような盗む方ではなく、あなたを与える、救う方です。今、私たちは神様と争うものではなく、それでも「しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ」と告白し続け歩みたいものです。神様も、あなたと永久におられるから。