―私は大丈夫、を保証するのは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『…実に、あなたは昔から自分のくびきを砕き、自分のなわめを断ち切って、【私は逃げ出さない】と言いながら、すべての高い丘の上や、すべての青々とした木の下で、寝そべって淫行を行なっている。わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。―神である主の御告げ―どうしてあなたは、【私は汚れていない。バアルたちには従わなかった】と言えようか。谷の中でのあなたの道を省み、何をしたかを知れ。あなたは、道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだ、また、荒野に慣れた野ろばだ。欲情に息はあえぐ。そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか。これを捜す者は苦労しない。その発情期に、これを見つけることができる。はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。【あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです】と。盗人が、見つけられたときに、はずかしめられるように、イスラエルの家もはずかしめられる。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちがそうである。彼らは木に向かっては、【あなたは私の父】、石に向かっては、【あなたは私を生んだ】と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、【立って、私たちを救ってください】と言う。では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ。なぜ、あなたがたは、わたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしにそむいている。―主の御告げ―わたしはあなたがたの子らを打ったが、むだだった。その懲らしめは役に立たなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。どうしてわたしの民は、【私たちはさまよい出て、もうあなたのところには帰りません】と言うのか。おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。それであなたは、悪い女にも、自分の方法を巧みに教えたのだ。あなたのすそには、罪のない貧しい人たちの、いのちの血が見える。彼らの押し入るのを、あなたが見つけたわけでもないのに。しかも、これらのことがあるにもかかわらず、あなたは【私には罪がない。確かに、御怒りは私から去った】と言っている。【私は罪を犯さなかった】と言うから、今、わたしはあなたをさばく。なんと、簡単に自分の道を変えることか。あなたはアッシリヤによってはずかしめられたと同様に、エジプトによってもはずかしめられる。そこからもあなたは、両手を頭にのせて出て来よう。主があなたの拠り頼む者を退けるので、あなたは彼らによって栄えることは決してない。…』」

エレミヤ書2章20-37節

 

私は大丈夫、という人に限って失敗することが多々あります。詐欺とかもそうですよね。私はそんなものは引っかからないから大丈夫だから、という人が意外に引っかかる。だます方がまず悪いのは間違いないのですが、私たちは誰を、誰のことばを信頼するのでしょう。言葉面?そのブランド名?ただあなたを愛してやまない方がいることを忘れないでください。あなたを自分の利益のためではなく、御子イエス様のいのちを与えてまで救わんとされた神様が今日あなたを導こうとされていること、共におられ、語られ、導かれているという事を。永遠の恵みを与えるために。私たちは今こそ神様に帰ろう。神様はあなたを喜んで迎え入れてくださるから。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことになります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始め、幻を見せつつ奴隷としてではなくハネムーン、永遠の婚姻関係、神様の家族に招こうと訴えます。

 

神様はなおエレミヤを通して「実に、あなたは昔から自分のくびきを砕き、自分のなわめを断ち切って、『私は逃げ出さない』と言いながら、すべての高い丘の上や、すべての青々とした木の下で、寝そべって淫行を行なっている。わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。―神である主の御告げ―どうしてあなたは、『私は汚れていない。バアルたちには従わなかった』と言えようか。谷の中でのあなたの道を省み、何をしたかを知れ。あなたは、道をあちこち走り回るすばやい雌のらくだ、また、荒野に慣れた野ろばだ。欲情に息はあえぐ。そのさかりのとき、だれがこれを静めえようか。これを捜す者は苦労しない。その発情期に、これを見つけることができる。はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。『あきらめられません。私は他国の男たちが好きです。それについて行きたいのです』と」と語られます。

 

まず「昔からのくびき」というのは、神様の与えてくださった律法というものです。民は、自分たちはそんなものはなくてもちゃんとやっていけるから大丈夫、神様から離れることはないんだ、と言っていたのに、いざ困難が訪れた時に、何で神様は何もしてくれないんだ、と理不尽なことを言うわけです。これは私たちも胸に手を当てて考えれば身に覚えがあるかもしれません。

 

ただ、ここで忘れてはいけないことがあるのです。そもそも神様が与えた律法というのは、教え、語られる言葉というのは、ただ宗教的な教えによって縛り付けるものではない、ということです。十戒って知ってますか?あれ、よく見てみたら当たり前のことに見えませんか?盗んだり、殺したり、そんなことをしていいことがあります?むしろ神様と繋がっている中で神様が全ての必要を与えてくださるのです。

 

考えてみれば、実を結ぶためには、枝につながっていて、枝が幹につながっていなければ実らせることはできませんよね。人も一人で生きる事なんてできない。神様は、天と地を創造されエデンの園に全ての必要を備え、人を住まわせてくださりました。園の中央にある木以外からは何でも食べていいよ、と仰っていました。園の中央は神様の主権の場所であり、神様から与えられる恵みそのものなんです。だからその主権を奪うことは彼らが自分たちで好きに生きる事に他ならなかったのです。アダムとエヴァはまさに、神様を自分のくびきと考え、これを砕き、と言いますか離れ、結局罪の呪いに繋がれるといいますか、罪に支配されていく事になるのです。

 

ただ、神様はすべてを彼らに与えてくださっていたのです。エデンの園が、神様からすべての恵みが溢れ、その地を満たしていたように、先ほどの木の実の話ではありませんが、私たちを満たして下さっているのです。それに、じゃあ神様につながってみるか、と言ってつながるものではなく、むしろ神様が私たちを繋げてくださっているのです。あなたが枯れ果てることがないように、あなたが枯れて落ちて火に焼かれる枝や何やらのようになることがないように。

 

むしろ、神様は、私たちが実を結ぶことができるように世話をしてくださっている、本当の良いあなたになれるように。神様が日々私たちを整え、また養ってくださっているのです。私たちは神様は何もしてくれない、と思う中で、実は神様が私たちが当たり前と思っていることを与え、また恵みを注いでくださっているのです。

 

サタンはエヴァを誘惑する際に「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と言っていましたが、神様はエヴァが神様にとって代わることを嫌がっているんだ、だからよいものを与えないんだ、と誘惑したのです。しかし神様は私たちを最高のあなたにしたいのです。だから日々その心血を注ぎ守り導いて下さっているのです。キリストの似姿、最高のあなたへ。

 

話を律法に戻し、律法を与えられたモーセは「主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである」と、民に訴えます。神様ご自身も、彼らが長く幸せに生きるためにこれを与えたんだよ、と語られていたのですが、まさに神様の願いは、あなたが神様の恵み、義によって幸せになることを願っておられるのです。

 

彼らは神様の内に幸せはない、と言いますが、自分たちの幸せを願い好きに生きる、まあそれは自由と言えば自由ですが、結局何かの影響を人は受けます。そして世の勢力、思い煩い、罪、サタンに支配されていく。それを神様は悲しまれ、今訴えられているのです。なぜそうなってしまったのか、と。自分は大丈夫だ、と行った先をだれが責任を持ってくれるのでしょう。

 

パウロという人は「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」と言っています。まさにその通り。

 

しかし、その罪の奴隷、世の支配に、サタンに支配下にくだされることを悲しまれる神様は、むしろその罪の縄目から解き放ち、自由にするため、私たちのこの罪のくびきを負わせ、十字架に架け、身代わりに罰し死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、永遠のいのちを、新しい命を与えてくださるのです。

 

私を大丈夫、にしてくださった、御子イエス様の命がけの愛をもって大丈夫にしてくださる神様から私たちは離れてはいけません。神様はあなたに重しとなるくびきを負わせるのではなく、世のくびきから解き放って、罪のくびきから解き放って自由にしてくださった。今や神様の義が、恵みが今日、あなたを覆っている、神様が覆ってくださるのです。イエス様の似姿に日々近づけてくださるのです。この恵みを自ら手放すことなく、神様があなたの内に現される義、愛、恵みを待ち望み、この神様から離れず歩もう。もうあなたの内を罪や、悪霊、世の勢力に支配させてはいけない。神様の霊が、いのちがあなたの内を満ち溢れさせてくださるのだから、この神様から離れず、歩もうではありませんか。私の思うところをはるかに超えた神様の恵みが満ち溢れることを祈り。

(↑の全部の箇所を見れなかったので続きは明日)