―どこか遠い昔の話ではなく、あなたのため― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。【私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。】兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、【彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない】と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。【主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。】ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』」

使徒の働き2章23-36節

 

本やドラマなどを見る時は、それはそれで楽しんでも自分の事ではない、どこか遠い世界の話、と考えるでしょう。まあそれは妥当な話。聖書についてはどうでしょう。あれはどこかの宗教の話、わたしには関係ない、と思いますか?しかし神様はリアルなのです。作り話でもなんでもない。むしろ神様は私たちを造られ、今日も私たちを愛し、養い、導いて下さっています。あなたのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほど愛してくださった神様が今日も。あなたはこの神様とのリアルな関係を求めていますか?

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、私たちの重荷、罪一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ死なれ、3日目によみがえられて後天に昇られた、その後聖霊様が降臨された時に起こった出来事、ペテロが聖霊様に導かれて語っていることになります。

 

イエス様が新しい助け主として与えると約束されていた聖霊様が今弟子たち、12弟子だけではなく、共に集い祈っていた人たち一人一人の上に降り、彼らの上にとどまり続けていました。彼らはイエス様が仰られるように新しい力を受けたのです。いや、神様の霊によって生きるものとされたのでした。彼らは今この地に集まっている様々な国の人たちのことばで語り始めます。何を語ったのか、ヨエルという預言者を通して語られていた預言、聖霊様が降るという事が成就したことを告げたのですが、ペテロが語ることはここで終わりません。

 

その本質は、さあ聖霊様を受けて、力を受けて生きなさい、ではないのです。イエス様も仰られていたわけですから聖霊様を受けるという事はとても大事なことであることには変わりはありませんが、ペテロがここで語っているように、イエス様の救いを受け入れる、これが大事なのです。そしてその中で私たちは聖霊様を受けるのです。まあこの辺は教団教派によって考え方が違うので何とも言えないのですが。ただ↑の続きの箇所で、ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」と語った、そう、イエス様の救いを受け取る、ここに本質があるのです。

 

ペテロは、今聖霊様に導かれて「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」と語ります。イエス様が来られたのは、いや十字架に架けられ、死なれ、死なれたままではなく3日目によみがえらされたのは、あなたのためだった、と語ります。それはあなたを、死に、罪に、サタンに捕らえ続けさせるのではなくそこから解放するためだった、と。

 

イエス様は、私たちを知らない、と捨てるのではなく、私たちを神様と関係あるものとするために、私たちを救おうとされた、私たちを洗い聖めてくださったのです。イエス様の十字架は終わった事だから自分には関係ない、ではないのです。自分が何か特別な力をもらえればいい、ではないのです。私たちはこのイエス様の十字架にあって、神様と繋がれ、聖い御霊である聖霊様を私たちに注がれるのです。新しい神様の霊、息吹によって私たちは本当に生きたものと変えられるのです。

 

ペテロは、「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる」というダビデの預言的詩を引用し、今訴えます。

 

これはダビデが死から復活したんだ、という意味ではありません。もちろん終わりの時には聖徒らとともにダビデもよみがえることになるのですが、それはまだ先の話。イエス様が私たちの復活の初穂となって、よみがえられたことによって、私たちも同じ復活の恵みに与らせていただける、私たちも復活の、新しい命が与えられ、喜びに満たされるのです。その時何物も私たちをもはやとらえることはできず、ハデスもあなたを閉じ込めることはできず、朽ち果てることもなく、栄光のからだがやがて与えられる。私たちはその喜びに心楽しませていただけるのです。

 

イエス様の十字架と復活があったから、私たちは今生きたものとされる。聖霊様によって本当に生きたものとされる。驚くべき神様の恵みに生きるものとされるのです。遠い昔の話や別世界の話ではなく、あなたのために、神様はこれを成し遂げてくださったのです。そしてそれは弟子たちだけではなく、あなたがたにも受けてほしい、と招かれているのです。本物の救いを、イエス様の十字架による死と復活による救いを。あなたをハデスではなく、神様の家族として招いてくださる、自由にされた新しい命、聖霊様に満たされた新しい命に生きてほしい、と、弟子たちだけではなく、ここに集まる彼ら、私たちにも今訴えられているのです。神の右の座につかれたイエス様があなたをこの天の喜びに引き上げようと招かれているのです。

 

最後に聖霊様に導かれ、ペテロは「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と語ります。これはあなたのため、あなたを救うための十字架だった、と。あなたはこの招きを受け、どう応えますか。私たちは今こそ立ち返り、この永遠のいのちをいただこう、このあたらしい、イエス様の十字架による死と復活によって与えられた永遠のいのち、新しい命に生きようではありませんか。