―ハネムーン時代の愛、その後どうします?― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ついで、私に次のような主のことばがあった。『さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ―』ヤコブの家と、イスラエルの家のすべてのやからよ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。彼らは尋ねもしなかった。【主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は】と。しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。祭司たちは、【主はどこにおられるのか】と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った。そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。―主の御告げ―また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡ってよく見よ。ケダルに人を遣わして調べてみよ。このようなことがあったかどうか、よく見よ。かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。―主の御告げ―わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。…』」

エレミヤ書2章1-13節

 

ハネムーン、この時の愛はどれだけ深いものなのでしょうね。おそらく幸せの絶頂だったでしょう。それがいつまでも続けば本当に理想的なんでしょうね。人間関係も、意外に最初はこうだと思ったのに、と後で態度が変わるなんてこともしばしば見かけます。最初見て感じたことと、実際に一緒にいて思っていたのと違うから、と態度を翻されることだってあります。ただ、神様は永遠の愛をもって私たちを愛し、誠実を尽くし続ける神様なのです。私たちは神様の愛を受け取ったのに、状況によって態度を変えるものではなく、イエス様のいのちにあって固く結ばれたいのちの関係の中、イエス様から離れず、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことになります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始め、まずアーモンドの木の枝の幻を見せながら、死をいのちの変える神様の愛が今注がれていること、煮えたぎる窯の幻から差し迫る危機だからこそ神様に立ち返り身を寄せるよう訴えた、その続きになります。

 

神様はエレミヤに「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ―」と告げられます。そう、神様はどこか遠くから叫べ、というわけではなく、「行って…耳に呼ばわれ」というのです。近くに行って、しかも、耳ですから、たとえの面もあるでしょうけど、それほど近く、直接的に語りかけたい思いがここで語られているのです。彼らへの愛を。

 

神様は、ハネムーン時代(婚約、当時は婚約=結婚という意味合いがありました)の愛を語ります。それは彼らがエジプトで400年近く奴隷としてらわれて後、神様がモーセを通して働かれ、救い出された時があった、まさにその時の出来事になります。とはいえ、イスラエルの民がそんなに誠実だったかな?と思うところですが、彼らは誰も助けてくれなかったエジプト時代から救い出された唯一の神様に助けを求めたのです。彼らがエジプトを脱出させていただいた後、水も食べ物もない地を進む中で、神様を求めた。他の誰でもない、神様を求めた。不平不満はあった、それでも神様を求めた、そう彼らの姿を伝えるのです。まあ↑の中盤以降を見てもわかる通り、最初だけだったんですけどね。

 

ただ、神様はそれだけの愛を向けた、助けを求めたから助けた、のではなく、神様がまず愛されたのです。先程の預言の後半で神様は「あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ―」と仰られていますよね。

 

彼らの心はある意味では荒野のように荒れ果て、何も収穫を彼らから求められるような状況ではない、それでも神様は愛を注ぎ、種をまき、水のないところに水をわき出でさせ、食べ物のないところに神様は毎日のように食べ物を神様ご自身から送られたのです(安息日以外。安息日についてはその前日に2倍の食べ物を与えてくださっていました)。襲い来る敵からも守られました。彼らが戦闘技術に秀でていたのではなく、神様ご自身が海に敵を沈めたり、祈りの力によって上から霊を注ぎ勝利に導かれたのです。また助け手も送ってくださったりもしました。

 

神様にとって彼らは大切な存在だったのです。疲れ果て、傷つき倒れた、荒野のような状態のままではなく神様は聖なるもの、神様の手によって造られた大切な存在、初物(日本的には跡取りですか?ここでは長子にあたりますが)なのです。これを食らおうとしていたエジプトも敵も討たれました。それと同時に、彼らを食らおうとするものと神様は戦ってくださる、彼らが、あなたが災いに支配されることを神様は望まれないのです。

 

神様は永遠の愛をもってあなたを愛された、愛されているのです。誠実を尽くされる神様なのです。本来神様の子とされた、最高の関係、しかし私たちは神様から離れていってしまいました。婚姻関係に神様はここでなぞらえていますが、神様は本来あなたとそのような、いや人間における不完全な婚姻関係ではなく、それでも誠実を尽くされ続ける、愛を注がれ続けるのです。あなたに生きてほしい、と。あなたが大切な存在だから、その聖さ、愛で満たしたいのです。

 

ところが、神様は彼らがどうなっていったのか、「ヤコブの家と、イスラエルの家のすべてのやからよ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。彼らは尋ねもしなかった。【主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は】と。しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。祭司たちは、【主はどこにおられるのか】と言わず、律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしにそむき、預言者たちはバアルによって預言して、無益なものに従って行った」と語られ、もう一度思い起こさせます。

 

神様は不正をされる神様ではなく、あなたに真実の愛を現される、正しい道へと導かれる方です。あなたが空しいもの、世の勢力、罪、サタンといったものによって空しくなることを望まず、神様のこの真実の愛、終わることのないハネムーンの愛、婚姻関係の愛が注がれているのです。私たちが何でこんな状態に、こんなふうにならなければいけないんだ、つらいことにならなければいけないんだ、と思う中にあって、穴だらけ、砂漠のようなところを進まなければならないんだ、と思う中に神様は道を備え、川を流し、生かしてくださる方ではありませんか。あなたを無益なものとしたくないのです。神様は、あなたが死に向かうことを望まず、生きる事を願っておられるのです。ハネムーン期間が終われば態度を翻される神様ではなく、永遠の婚姻関係の中であなたに愛を注がれる。愛するがゆえにあなたに滅んでほしくないのです。約束の地に入ってからも神様は彼らの内に働かれ続けたように、あなたの内に、今日も神様が共にいるはずです。私たちが他のものに目を移して気づかないだけで。

 

婚姻関係は、1対1です。それは神様が定められたものです。神様は他の何かが取って代わることができる存在ではありません。神様は他の何にも代えがたい恵みを今日も注がれているのです。私たちは神様と他のものを競わせて選ぼうとしますが、一体神様の愛に何が勝ることができるでしょう。この天地万物を造られ、生まれる前からあなたを愛し、今日まで導かれてきた神様にだれが勝さることができますか?

 

いやそれだけではない、あなたを救うために、あなたの奪われ、傷つけられたこの魂を取り戻すために、神様は究極の愛を注がれたではありませんか。あなたの魂が、荒れ地のように何もなく、砂漠のように枯れ果てた状態になった、そのあなたを取り戻すために神様は御子イエス様のいのちをあなたに惜しまず与えられたのです。あなたのその罪を取り除き、取り戻し、回復させるため、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされた。完璧なハネムーン・婚姻関係、もとい神様の家族として完全にこのイエス様のいのちによって結ばれたのです。この愛から何ものも神様からあなたを引き離すことはできません。

 

↑で壊れた水溜を私たちが掘る様子について神様は語られていますが、神様はむしろあなたを生かすために、渇くことのない水を、イエス様という命の井戸を掘られることによってあなたに注がれたのです。その恵みを今日も与え続けて下さっているのです。このイエス様の命がけの愛、究極の愛にかけて。あなたを取り戻すためなら、あなたの内にある罪、サタン、諸問題と戦ってくださるのです。私たちはこの神様の究極の愛に帰ろうではありませんか。私たちが変わることはあっても神様は変わることがありません。天の色が、神様の永遠の愛が、恵みがあなたを今日も色付けてくださる、その神様に信頼し歩ませていただこうではありませんか。

 

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる」。イエス様にあってその冠をかぶらせ、満ちたらせてくださる、この神様から今日も離れることなく歩もう。