―わたしが一緒にいるから― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「再び、私に次のような主のことばがあった。『何を見ているのか。』そこで私は言った。『煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。』すると主は私に仰せられた。『わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。―主の御告げ―彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ。さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、―主の御告げ―あなたを救い出すからだ。』」

エレミヤ書1章13-19節

 

色んな国の格言でも似たような言葉があるのですが、聖書からの引用だと知られていないものが結構あったりします。特にソロモンの残した格言の中の「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ」というものに似たものがあっちこっちであります。本当に困っている時、側にいる友ほど励ましになりますよね。神様は私たちがどんな時であっても心配し、共にいて立ち上がらせてくださります。神様に頼ることは恥でも、弱い人がすることでもない、神様があなたを今日本当のあなたへと導いて下さる。私たちは神様に立ち返ろう、神様に頼ろう。神様はあなたと共に歩み、導いて下さるから。

 

さて、↑は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤを通して神様が預言していったことになります。エレミヤは時代に流されることなく、世の情勢に媚を売るでも忖度をするのでもなく、神様に従い歩んでいた、そんな彼を神様は召し出し、預言者として、この終わりの時代(バビロン捕囚に向かっていく中)、南ユダに向けて今神様は語り始め、まずアーモンドの木の枝の幻を見せながら、死をいのちの変える神様の愛が今注がれていることを訴えます。

 

ところが2番目の幻として神様が見せるのは裁きの宣告になるのです。神様はアーモンドの木の枝の幻を見せた後、今度は「煮え立っているかま」の幻を見せ、「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。―主の御告げ―彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。しかし、わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ」と神様は訴えかけます。

 

これは歴史で見る通り、バビロン帝国がイスラエルの北より攻めて来て、イスラエル(南ユダ)を捕囚していく事になります。その宣告が今なされるのです。エレミヤの預言者としての働きは、ヨシヤ王の第13年からですからこれは紀元前640年のことです。バビロン捕囚が完了するのが586年ですから、まだ51年の期間があります。ただ、神様はもうこの時点でバビロンがユダを滅ぼすことを決断され、語られるのでした。

 

実際その兆候はすでに出ていて、ヨシヤ王の治世の中で、エジプトがバビロンと戦いに出るのですが、その際エジプトの王たちは南ユダを通っていきます。その際、ヨシヤ王はエジプトの王にたたきに挑み殺されることになります。しかし結局エジプトはバビロンに討たれます。当時それなりの力を持っていたエジプトでさえ、バビロンに脅威を覚え、戦いに挑まざるを得なかった、そして彼らもまた敗れていく。ちなみにこの時神様はそのエジプトの王に挑んではいけない、とヨシヤ王に語っていたのに、ヨシヤ王は神様を信頼せずこれに従わず、結局殺されることになるのでした。

 

では神様は彼らを滅ぼされるのか、と言われたらそうではありません。神様はエレミヤを通してなぜ今あらかじめ語られているのか。どうせ滅びるんだから、語る必要はない、と神様は考えず、この歴史的な事実を予めエレミヤを通して民に伝えようとしているのです。その目的は、「彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだ」その民が、もう一度神様に立ち返るためです。神様が本当の意味で打ち砕きたいのは、彼らの内にある偶像、彼らの心をむしばむサタン、世の勢力、罪です。これに対し怒りを燃やし、それこそヨエル書で見たように、ねたむほどの愛をもってあなたを取り戻そうとされるのです。あなたに生きてほしいのです。時代の潮流にあなたが疲れ果てるのではなく、支配されるのでもなく、罪に支配されるのでもなく、あなたに生きてほしいのです。あなたの内に預言者を通して神様が語られるように、神様の霊が今、そこにある、どこに希望があるのか?と思う中にも。

 

それらの罪を打ち砕くために、今神様はバビロン捕囚の中を通らせようとされます。神様が見捨てたからそうされたのか?そうではないのです。偽りの希望ではなく、本物の希望が神様にある、この神様に生きる事を教えたいのです。

 

エレミヤ書のだいぶ先の章でエレミヤを通して神様は「バビロンの王に仕え、そして生きよ。神殿の器具はバビロンに運ばれるが、主が顧みる日までそこに保管される。しかし時が来ればそれらをもとの場所に帰らせる」と語られます。神様はバビロン捕囚をやはり取り消されることはなく、結局帰ってくるのは神様の仰られるとおり70年先になります。

 

しかし、このエレミヤを通して神様の語られる言葉を見ますと、「神殿の器具はバビロンに運ばれるが…主が顧みられる日までそこに保管される」というのです。実際これに手出しをしようとする悪王がバビロンに出てくるのですが、その王はすぐに裁かれます。神様が守ってくださっていたのです。神殿の器具だけ?いえ、イスラエルの民もです。

 

神様は捕囚される最後の日まで彼らに語り続けました。しかし捕囚されて見捨てました、というわけではないのです。バビロンの地においても神様はすでに預言者(エゼキエルなど)を置いていました。神様が見捨てるなら、預言者などたてる必要はない、でも神様は見捨てないからこそ、預言者を通してそこで語り続けるのです。生きてほしい、と。そしてそれだけではなく、神様はバビロンの宦官にイスラエルの民を置かれます。そして彼らがバビロンの中枢で誠実に仕えることによってイスラエルの民を守り、また彼らを通して多くの不思議な業を神様はなされ、それを見た、捕囚をしたネブカデネザルも神様を知り、またその人たちを通してイスラエルは民族滅亡の危機から救われることになるのです。そして70年先には神様ご自身がペルシャ帝国のクセルクセス王を奮い立たせ、バビロンを打ち倒し、イスラエルの民の帰還を赦します。しかもただ赦すだけではなく、彼らを全面的にバックアップし、帰った先で苦労することになっても、いつも彼らを守りました。

 

神様は確かに捕囚期間中も、捕囚後も、ただ神殿の器具だけが守られたのではない、あなたという神様の大切な存在、神様の家に欠かすことのできない「器具」といいますかあなたを神様の御手の中、守られるのです。先程の預言の中で「バビロンの王に仕え、そして生きよ」という神様のことばがありましたが、理不尽に耐える、というよりも、このバビロンの背後に今見たように神様がおられる、守っておられる、だからこの神様の守りに信頼し、神様が生かされている今を、いやこの命を、生きよ、神様があなたを生かしているのだから、この神様に信頼し仕え、生きよ、というのです。そのあなたを守られる神様がいるから。

 

以前分かち合いましたイザヤ書の中で、神様は「…胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」と仰られていましたね。神様は、元気な時も、その苦難の時であっても一緒におられ、あなたを背負い、歩んでくださるのです。神様、あなたはどこに行ってしまったんだ、と思う時、実は神様はあなたを背負い共にこの試練の中さえ進んでくださるのです。

 

↑で神様は「自分の手でつくった『物』を拝んでいる」彼らに訴えかけますが、私たちは自分で勝手に紙などいない、希望はない、とつくりだした偽の霊にとらわれてはいけない。また世の情勢にあなたを支配させてはいけない、飲み込まれてはいけない。むしろ私たちはあなたを造られ、あなたを愛し、あなたが滅びるのではなく生きてほしい、と行動される神様を求め、この神様の恵みに生かされ、歩ませていただきたいものです。神様の霊が、いのちがあなたの内に溢れる時、私たちは怒りの杯、裁きの杯、哀しみの杯ではなく、いのちの杯によって私たちは満ち溢れる、この神様の愛の杯があなたに注がれるのです。

 

だから神様はエレミヤを通して「さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、―主の御告げ―あなたを救い出すからだ」と語られるのです。帯を締めるように、と。エレミヤをこの後脅す、神様の御心に脅しをかけてくる輩もたくさん出てくる、しかし、彼らの顔におびえるのではなく、彼らの脅し、勢力におびえるのではなく、神様の御顔を仰ぎ見よう、と。神様の愛は結びの帯として完全、神様があなたを守られるのです。

 

神様はこの究極の愛、いのちの帯を与えられました。神様は私たちの命を救うために、私たちの罪への煮えたぎる窯の中身を私たちにではなく、御子イエス様に注がれ、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架に架け、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださった、新しい命が与えられるのです。この神様の愛があなたを今覆っているのです。

 

確かに今の時代様々な事があり、思い悩みます。しかし、その苦難の中神殿の器具、神様の宮、神様の子とされたあなたを神様がこの完全な愛によって保管、守ってくださっている。捕囚期に驚くべき多くの御業をなされた神様が今もあなたにその御手を伸ばされ、不思議をもって守られるのです。あなたに差し迫る様々な世の波、問題、痛み、哀しみはあるかもしれない。しかし、私たちはそれらに心を明け渡すのではなく、神様に立ち返り、この器に喜びで、神様の完全な愛で満たしていただこう。神様の霊で満たしていただき、私たちの内が神様の完全な命で支配・満ち溢れることを祈ろうではありませんか。あなたを救い出す神様が今日もあなたと共におられるのだから。