―どんな時であってもあなたを支えるのは― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―』そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。『今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。』」

エレミヤ書1章1-10節

 

時代が変わると私たちの心の支えとなるものが変わりやすいところがあります。それは価値観の変化や、色んな便利なものが出てきたりすることで変わってくるのでしょう。人の気持ちもそうですが。年齢的なものはどうでしょう。年齢ごとに自分を支えるもの、人は変わってくるかもしれません。しかし、双方に共通しているのは、それはいつまでもあなたを支えるものではない、という事。いつかは離れてしまいます。しかし、神様にとってあなたが若いとか、年を取っているとか関係ない、時代がどんなに立とうと神様は変わらない。私たちは神様との関係を変えてはいけない、神様があなたをとこしえに導かれるから。

 

さて、イザヤの預言の後からアモス、オバデヤ、ヨエルという預言者を見てきましたが、時代はさらに進み、時は紀元前627年、南ユダ王国をヨシヤ王が統治していた頃から紀元前587年、ゼデキヤ王の治世11年目、バビロン捕囚までの間、エレミヤという人が神様から遣わされ、預言者として活動していきます。とはいえ、バビロン捕囚によって、彼はバビロンに連れ去られることはなかったのですが、エジプトに言ったところで彼は殺されることになるのですが。それについてもエレミヤ書の中で触れられていきます。

 

ということで、まず「ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった」と、エレミヤはこの預言の背景について記します。

 

まずベニヤミンの地アナトテとありますが、これはベニヤミン族の領地に置かれている、祭司であるレビ人たちのために設けられた場所になります。特にこのアナトテという場所はとても貧しく寂しい町、そんな中にあってエレミヤという人は育ちました。彼が預言活動を始める前の時代から見るに、彼は相当な苦労があったように見えます。イザヤ書でも見ましたマナセ王が悪政をしき、バビロン捕囚が決定的になり国は傷を受け、さらにその息子アモン王もマナセと同じ道を歩んだ、というほどで、民衆もこれはいかん、とアモン王に謀反を起こすほどの状態だったのです。その中で、今ヨシヤ王が誕生しました。

 

エレミヤはそのような中で神様を諦めず神様に頼り続けました。彼は祭司の家の生まれ、ということですが、祭司の中でも世に迎合して、王に媚を売って、神様と民にではなく王に仕えている者だっていました。しかし、今申し上げたような時代の中にあっても、彼は神様に頼ることをやめなかったのです。これは、↑のエレミヤへの神様の訴えにも共通するところでもあるのですが、私たちは神様をどんな時も諦めてはいけない、いつも頼る必要があります。どんなに時代が変わっても神様のすばらしさは変わらない、あなたへの思いは変わらないのです。

 

先日までヨエル書の預言を見ていましたが、どんな艱難時代にあっても神様はそこにいる、神様を呼び求めるものは救われるのです神様の霊が、今エレミヤに注がれ預言活動を始めるように、神様を求めるものに注がれ、とどまるのです。エレミヤのこの神様への信仰は、信頼は変わることはありませんでした。最後彼は自分たちの国の王にさえ迫害されることになりますが、彼は決して神様のことばを、神様ご自身を曲げることなく信頼し続けた、語り続けたのです。その彼を最後まで導くのです。私たちは神様がいる、この恵みを忘れてはいけません。その場所をどんなに世の勢力が、罪が、サタンが支配しようとも、神様に勝つことはできません。神様の霊が、恵みが満ち溢れることを私たちは入りたいものです。

 

その神様の思いを語られるかのように、神様はエレミヤに向けてまず「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」と仰られました。彼を支えているのは神様なんだ、と。どんな時代であろうとも、この先何があろうとも、どこに行くことになろうとも、生まれる前にから彼を覚えていた神様が、共に進まれるんだ、と。

 

預言者は他にたくさんいましたし、彼だけが特別、というわけではなく、これは誰に対しても言えることですが、神様はエレミヤについては預言者として計画していたわけですが、あなたにはあなたへの役割を持っている、計画してくださっています。神様があなたに命を与え、神様があなたを生み出し、神様が遣わされる、そこに神様がいる、それがどれだけの恵みか皆さんはどれだけ感じているでしょうか。私の人生は私のものだ、という人もいるでしょう。しかし、それなら自己都合でどんな風に生きてもいいの?むしろ与えられたいのち、これをどう生きるか、大切にしませんか?

 

私たちは偶然存在するのではない、神様によって大切に造られた存在なのです。あなたは神様にとって大切な存在なのです。神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」と仰って下さっているのです。四方八方から救いが来るんだ、と。あなたは神様に覚えられている、これを忘れてはいけません。神様こそがあなたの保証なのですから。んなに時代が変わろうとも変わらない神様が、昔も今もこれからも、その恵みをあなたに注ごうとされている、私たちはエレミヤのように、誰かに、世の勢力に媚を売るのではなく、神様に信頼し続けたいものです。

 

この神様の訴えに対して、エレミヤはここで「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えます。エレミヤが若い、ということですが、年齢的なものと、預言者として、他の預言者と比べても若い、という意味かもしれません。彼は自分が若いことを気にしているというよりも、自分一人ではどうにもならないことを知っていた、自分が語るのではどうにもならないことを。だからこそ、彼は今、神様により頼むのです。

 

人はできないことを恥じる必要はありません。むしろできないことを放置するのではなく、神様に頼っていいのです。彼に言葉を与えるのは神様、私たちに霊を注がれるのは、支えてくださるのは、御心を現されるのは神様です。私たちの実力によるものではありません。神様が私たちの弱さの内に働き強めてくださる、神様の驚くべき御業をなして下さるのですから。私たちを支えているのは、あなたを生まれる前から選ばれた、支えてこられた神様なのですから。

 

1世紀に活動していた使徒パウロも「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と語っています。それは誰であろうとも、時代が経っても変わらない、神様は世界の基が置かれる前からずっとあなたに愛を注ぎ、いのちの道へと導きたいと、その御思いを、愛を注がれている、私たちを神様が導いて下さるのです。

 

そこで神様は「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」と仰られ、御手を伸ばしてエレミヤの口に触れ、「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる」と語られました。

 

ここで思い出すのは、ヨエルを通して語られていた預言、またイエス様の昇天後に成就した預言、「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる…」という言葉です。

 

神様は神様を求めるすべての人に霊を注がれる。若いからいい、高齢だからいいとかそういう話ではないのです。神様はそれぞれにそれぞれの役割を与える。これまで色んな預言者の書を見てきましたが、色んな人がいたはずです。しかし、誰だからダメ、ではなく神様がその霊を注がれ、恵みを、御心を現して下さるのです。私が優れているのではなく、神様の霊によって驚くべきことが成されるのです。不思議なしるしが、神様の栄光、素晴らしさが現わされるのです。今、神様のことばがエレミヤの口に授けられた、という事は神様の霊が彼の内に注がれたという事です。エレミヤが何かをするのではない、エレミヤを通して神様が何かをされる、それにあなたは信頼しますか?と彼は問われ、立ち上がるのでした。

 

パウロという人は、何度も御霊によって歩みなさい、と勧めます。私たちは私たちのいのちを造られた神様によって支えられているだけではない、神様は、私たちの古い内側にある傷や痛み、問題、様々な霊、罪に支配されているものを、洗い聖めるため、私たちのこれらの一切を、罪も身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。ここに神様の保証、完全な愛が現わされているのです。その私たちの内に新しい助け主、聖霊様が注がれ、留まり、あなたを導かれるのです。

 

時の問題でも、年齢の問題でもない、神様の前に私たちは神様の子とされたのですから、その恵みはいかばかりか。今こそ私たちはこの神様のいのちを受け、この御霊に導かれ歩もうではありませんか。そして恐れることなくあなたの遣わされているところに出ていき、大胆に御言葉を語ろう。神様の御心がなることを祈り、また愛をもって仕えようではありませんか。そこに神様の栄光が、恵みが満ち溢れることを祈り。