―それはあなたのためだったんだ― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「『…イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。…』」

使徒の働き2章22-24節

 

人は時に、自分に都合の悪いことを言われると耳をふさぐといいますか、それは自分には関係がないことのように受け取ることがあります。でもあなたのために本気で言ってくれていることもあるんですよね。それでも自分が正しい、と思っているからなのかなかなか受け入れられないこともあります。人はまあ何と聴くよりも語ることの方が多いことか。ただどうか忘れないでほしいことがあります。神様があなたを愛していること、あなたに本当の命、恵みの内を生きてほしいと願い、語られ、行動される方がいるという事を。御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛された神様が今日、あなたに恵みの雨を注がれているという事を。私たちはこの神様の御声を聴き、委ね、歩みたいものです。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれ、3日目によみがえられたのち、天に昇られた後、イエス様が約束されていた新しい助け主、聖霊様が降られた時の話になります。この日、12弟子を含めたイエス様について行っていた人たちが再び集まり祈っていたところ、聖霊様が彼ら一人一人の上に降られ、とどまっていた、その時、彼らは様々な国のことばで話し始めたのです。今この地に集まってきている様々な国から来ている人たちのことばで。

 

そしてペテロが代表して今、語り始めます。いや、聖霊様に導かれて「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」と語り始めます。

 

彼らもついこの間までイエス様を見ていました。何年も、何十年も前の話ではない、ついこの間の話です。そんな過去のことを気にする必要はない、ではなく、これは神様が今知ってほしい事なんだ、と聖霊様はペテロを通して示されるのです。それはイエス様の事です。イエス様は昔の存在ではなく、今あなたのために必要な方であること、必要のない方なのではないことを訴えるのです。イエス様は、人ではなく、神様から遣わされたかである、と。そして彼らのため、あなたのために驚くべき不思議を行われました。

 

この使徒の働きの分かち合いの前の、ルカによる福音書の分かち合いの中でイエス様が行われた多くの奇跡を見ましたよね。イエス様は中風(脳卒中)をわずらっている人をいやしたり、12年も長血を煩っていた女の人を癒されました。また、病気で死んでしまったヤイロの娘やマルタとマリやの弟らラザロも生き返らせました。また、2万人近くの空腹な人を、五つのパンと二匹の魚で満たされました。イエス様のことばには権威があって、すべての悪霊も追い出すことができました。その口から発せられることばは実に恵みのことばで、みんな神様をあがめたほどです。イエス様は自分がいかに素晴らしいかを現すよりも、神様の栄光、素晴らしさを現して、彼らを神様が愛されていることを示されたのです。

 

当時、どうにも癒し難く、社会から見捨てられた人たち、家族からも見捨てられた人たちもいました。医者にいいようにお金を吸い取られ、長年苦しみ悶えていた人もいました。しかし、神様は彼らを見捨てることはなかったのです。

 

ところが、彼らはそのイエス様を不法のものに渡した、自分には、自分の思う通りにしないものなど救い主でも何でもない、と引き渡し、十字架に架けたのです。その十字架にイエス様をかけたのは、誰か宗教家やローマ帝国の人間でもない、あなたでもあるんだ、と。彼らは直接手は下していない、というかもしれない。でも、彼らは何度も「イエスを十字架に架けろ」と手のひらを返し、叫んでいた。

 

教会でよく告白される「使徒信条」というものがあるのですが、その中で、「ポンテオピラト(イエス様の時代、当時のローマの総督)のもとで苦しみを受け、十字架につけられ…」と告白するところがあります。あれはポンテオピラトが悪いんだ、と言葉上はなりがちなのですが、私たちは忘れてはいけません、これは私たちがイエス様を十字架に架けたという事実を。

 

でもこれは昔の話でしょう?自分には関係ないのでは?と思う方もいるかもしれません。しかしそうではないのです。ペテロを通して聖霊様は、これは「神の定めた計画と神の予知とによ」るんだ、と仰るのです。神様が予め「あなたのためにたてられた計画として」イエス様を十字架に架ける、引き渡されることを決めておられたのです。イエス様が十字架にかからなければ、私たちの救いはない、私たちを救うため、それこそ↑の最後で「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」と復活について語られているように、あなたを死に繋がれたまま、神様から引き離され、世の勢力、罪、サタンの手に繋がれ、死にゆくことを神様は良しとできなかった、だからこそ、私たちの罪をイエス様に身代わりに背負われる決断を神様はされたのです。

 

ただ一時的にあなたを助けるためではない、あなたを丸ごと、あなたを捕える罪、サタンの手から、死から取り戻すためにイエス様を、神の御子イエス様を、神様ご自身が彼らにイエス様を引き渡し、十字架に架けられ、死なせたのです。ありえないと思いますか?でもあなたを愛するためなら神様はそのありえないことをなされたのです。

 

この事を今語っているペテロもイエス様を裏切り、近くにいながら助けることもしなかった、イエス様とならどんなところにでも行く、とイエス様が捕まることを話されてもなお、彼はそう言っていたのにもかかわらず、彼は裏切り、こともあろうに、イエスなど知らない、と否定し、3度目には呪いをかけてまで否定したのです。ある意味では関係を自ら断ち切ったペテロをさえ神様は憐れまれた、そして、彼の罪をもイエス様は背負われそのまま十字架に向かわれたのです。イエス様は彼のその言葉を聞いていた、その様子を見ていた、でもイエス様は十字架にそのまま進まれたのです。神様は、12弟子の筆頭格であったペテロの様子を見て、もうやってられない、とその計画を止めることなく、最後まであなたへの愛を実行されたのです。

 

神様の変わることのない愛、計画がこの時実現したのです。昔の事ではなく、今の事として、あなたの事として。他人事の話ではありません。これは神様のあなたに対する計画であり、それが実行されたのです。神?だれ?それが自分に何の関係があるの?という私たちを神様と関係ある者、神様の子として迎え入れるために、イエス様を十字架に架けるという計画を最後まで遂行されたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、同じ復活の恵みに、死にとらわれるのではなく、神様が自由、罪のなわめ、サタンから解放してくださったのです。

 

私たちはこの究極の愛によって、死ではなく、いのちへ、神様に守られている、この神様の完全な計画、御子イエス様のいのちを持ってまで取り戻された、この愛による計画に、御心の内に今日、生かされています。私たちは今こそ神様に立ち返ろう。この神様があなたの内に現そうとしている完全な愛、ご計画に生かされ歩もうではありませんか。イエス様の十字架と復活によって与えられたいのち、聖霊様によって変えられたペテロのように、神様はすべてを変えることができる、この神様が新しくあなたを変えられた、そのいのち、変えてくださる神様に信頼し歩もうではありませんか。