―それでもあなたと共に永久に住まいたい― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らのユダの人々への暴虐のためだ。彼らが彼らの地で、罪のない血を流したためだ。だが、ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰しないではおかない。主はシオンに住む。」

ヨエル書3章16-21節

 

15年程前かな、ある時教会の長老さんと、イエス様を信じたら永遠のいのちを得る、永遠に神様の御もとに住まう、と言いますけど、永遠に、終わりがないってどんな感じなんでしょうね?と尋ねたことがありました。すると長老さんは、「大好きな映画を映画館でずっと見ているような感じだと思うよ」と答えてくれました。その時は何となく納得したような気もするのですが、今考えるとどうして納得したのかよく分からない、けど、ずっと大好きな神様と、ずっと神様の見せてくださる素晴らしい命を歩める、それを見る事ができる、と考えたらそれは素敵だな、と今考えると思います。

 

さて、↑は紀元前840-801年頃、ヨアシュが南ユダを統治していた頃に南ユダに向けて、私たちに向けて、神様が預言者ヨエルを通して語られた言葉になります。ヨアシュの前の王アタルヤの暴虐から救い出された神様が変わらず共にいるから、今神様を覚えよう、と今訴えます。やがて来るイナゴとバッタ、世の様々な問題、罪、サタンにあなたの魂が食い尽くされる前に、立ち返ろう、と。神様が共にそれでもいる、神様の内に救いがある、だから神様を正しく恐れることを、聖なる山、神様のもとに帰ってくるように、と仰られます。ねたむほどに愛される神様があなたを回復させるから、と。神様があなたの繁栄、失われた神様の恵みを取り返してくださる、と。

 

神様はなおヨエルを通して「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない」と語ります。

 

神様が、↑の前で最後の戦い、ハルマゲドンについて「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と語り、まさに天も地も震えるほどの大きな最後の裁きがここでなされることが語られていましたが、一方で、神様は神様こそ私たちの避けどころ、とりでとなって下さる事を語っています。どっちなの?も思われるかもしれませんが、結局最後の決断を、神様はまさにシオンから、エルサレムから呼びかけられているのです。「叫び」とあるように、叫ぶ、獅子の咆哮のように今訴えるのです。

 

この獅子の咆哮と言いますか、神様の最後の訴えを示すかのように、イエス様は終わりの時について「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と語られました。

 

イエス様は、やがてやまだかつてない大患難の時が来るとイエス様ご自身が宣告しています。しかしそれは、↑にもつながるのですが、私たちが過ぎ去るもの、滅びるものとなることを望まれないからこそ宣言されているのです。↑で現れると指摘されている偽の支配者、あなたを惑わし、やがて滅びる方に向かわせる、奇跡的なものは見せても、奇跡だけに追従し、神様そのものの恵み、神様ご自身の救い、永遠のいのちから引き離そうとする者たちに捕らえられるのではない、むしろその暗闇にまことの光を照らし、私たちを永遠のいのちに招くために、これらを打ち砕くために、イエス様ご自身が再び来られる、というのです。最後の最後まで、あなたを何とか救いへと招こうと、裁きと共に、救いを、その門を開かれるのです。その時が救いの時か、裁きの時か、それはあなたの最後の決断なのです。

 

ただ、イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」と語られていますね。やがてイエス様が来られるのはまだ先、↑のような大患難時代がでもある、じゃあ私たちはどうしたらいいの?と思うかもしれません。しかし、私たちは永遠に目を向けなければいけません。イエス様は「しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」と仰られるのです。イエス様の仰る言葉は虚しくかえってくることはなく、また私、私たちを生かすいのちのパンです。

 

何よりイエス様の御そばで仕えていた12弟子の一人、ヨハネは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」とイエス様について「ことば」という表現で証言しました。神様の御側におられるイエス様がすべてを造られた、この方がすべ治めてくださる、このイエス様の前にやみは打ち勝てなかったんだ、というのです。どんな中にあっても「決して滅びることのない」イエス様のことばが、イエス様ご自身がそこにおられるのです。それが先ほどの神様こそ「その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住」まうと、救いへと招かれた、必死で訴えかける神様のことばにあるのです。

 

いつかではない、どんな困難な時であっても、私たちの避けどころ、砦である神様に身を寄せて良いんだ、帰っておいで、と。あなたが命を失うことを良しとできない神様が必死に訴えるのです。ヨエル書の預言では様々なものがありました。裁きの宣告、食い尽くされていく姿なども語られていますが、そのイナゴやバッタから身を避けられる場所と神様ご自身がなってくださるのです。わが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方となってくださるのです。

 

そこに、神様の招かれるエルサレムに平和がある、神様ご自身があなたに平和をもたらされる。あなたが神様に立ち返る時、神様ご自身の霊が、聖霊様が、あなたの内に住まわれる時、神様の平和があなたの内に、あなたの周りに満ち溢れる、なるのです。「エルサレム」と神様は↑で何度も表現されていますが、エルサレムというのは「神様の平和」という意味、まさにそこに招かれているのです。↑で神様が「その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」と仰られている通りです。エデンの園を潤していた神様の恵みがあなたの内を潤し、またあなたからさらにその恵みを満ち溢れ広げてくださるのです。そこに神様の恵みが、平和が満ち溢れるのです。

 

エルサレム、そこはイエス様が十字架にかかられた場所です。イエス様はまさに私たちの中心となって住まわって、私たちを守ってくださる。しかしただ守るだけではなく、神様との永遠の平和、和解のために、救いのために、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れられるのです。神様との平和、和解が、このエルサレム、十字架と復活によって成し遂げられるのです。イエス様はあなたを揺り動かし、滅びに向かわせるのではなく、永遠の救いへと招かれた、神様の住まう御国、神様の恵みが満ち溢れる場所へと、神様の霊があなたを生かす、その新しい命へと私たちを今日、招かれているのです。

 

神様は神様の住まうところに招かれていますが、時々詣でるようにくるのではなく、その住まいに私たちも住まうこと、とこしえに神様の御側に招かれたのです。イエス様も、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」と仰られました。

 

永久にシオン・エルサレムに住まわれる神様は、とこしえにあなたと共に住まうためにイエス様のいのちという代価をもってあなたを招かれたのです。どこか遠くではない、あなたのただ中に住まわれる神様を私たちは追いやってはいけません。時々神様のところにいってお恵みを、ではなく、いつも私たちはこの神様から離れることなく神様と共に生きさせていただきたいものです。↑の最後にあるような、あなたを破壊するようなものではなく、神様ご自身があなたの内に備えている、今備えられている恵みに信頼し歩もうではありませんか。神様が聖なるところとしてくださったその住まいに満ち溢れる恵みに信頼し。