―お酒に酔うのではなく― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。『どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。』人々はみな、驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか』と言った。しかし、ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ』と言ってあざける者たちもいた。」

使徒の働き2章5-13節

 

酔う、というとまあ大概の方はお酒に酔う、という事を想像されるでしょう。車酔いなどありますが、気持ちよくなるという意味ではお酒なんでしょうね。お酒を飲まないと本音が語れない、とお酒が良く持ち出されますが、お酒の力を借りないといけないの?と何となく思ってしまう。私も、教育実習に行った際、最終日、担当教師から「俺の酒が飲めないのか」と無理やり飲まされ、色々言われた(悪い事だけではなくていいこともね)、でもそれを酔った状態で言われてもお互いあまり残らない。まあそんな話はどうでもいいのでしょうけど、酔いの力を借りてではなく、私たちは聖霊様に酔うものでありたいです。よってどうにかなるのではなく、聖霊様があなたを強め、驚くべきことをなして下さる。私たちは何を求め今日、歩むでしょう。何を飲み、歩むでしょう。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯33年を歩んだのち、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれ、3日目によみがえられ、その後天に昇られてから50日たったペンテコステ(今年は5/19)に起こった出来事になります。↑の前では「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」という事があったのですが、それを目撃した人たちの間でこれは何事だろうか、と疑問が出てきたのです。

 

それはそうですよね。ここにいるイエス様の弟子だった12人や女性たちはユダヤ人ですから、そんな他国語を話せるわけがない。今と違って、外国語を学ぶ機会などそんなになかったでしょう。それに彼らはそれほど学があったわけではないことが随所に語られています(弟子の筆頭格だったペテロも漁師(職業差別をするわけではなく、当時の環境として)でしたし)。その彼らが突然他の国の原語、いわゆる今のような共通言語だけではない、あらゆる国のことばを語り出したのです。

 

話は逸れますが、↑の前の箇所を分かち合わせていただきました現在世界には6000近くの原語があると申し上げましたが、仮に似た言語を集めていくとどうなるか、と言いますと、17で止まるそうです。ですから進化はあり得ないんですよね。サルも、その喉の構造から、鳴き声は出せても、言葉は話せないそうです。また、どうしてもその先には進めないそうで、似ている言葉だからなんとなく分かった、とかそういう話ではないのです。ちなみにそうなった原因は、あのバベルの塔の事件の時です。人が神よりも優れたものなんだ、と天よりも高い塔を建て、自分たちを誇ろうとした(ちなみに頂上には偶像が安置されていた)のですが、その様子を見ていた神様は、せっかく神様が与えていたひとつのことばを混乱させ、彼らが集まって悪いことをできないようにしたのです。そしていわゆる元となる言語17にわかれたのでした。

 

話を戻して、いくら五旬節というお祭り時といえどもこの時、少なくとも15の国から人々が集まってきていました(捕囚によって散らされていた、ないしノアの洪水後に分かれていった民か)。もっと言うなら、続きの箇所から見ると少なくとも3000人近くの人がそこにいたのです。すごい偶然、と見ますか?こんな特別な場面に出くわすなんて。しかし、↑の前の箇所や先程も触れましたが、これは「天から激しい風が吹いて」起こったことです。偶然風が吹いた、とか何かが起こったのではない、神様ご自身がその風を起こされた、いや聖霊様が降ってこられたのです。神様ご自身のご意思で、今、この時、聖霊様が降られたのです。

 

確かにイエス様は新しい助け主として聖霊様をお与えになることを約束されていました。その時聴いていたのは弟子たちですが、弟子たちだけではない、今、全世界にその福音が宣べ伝えられようとしている、神様はその門戸を開かれたのです。弟子たちの上に確かに今聖霊様が降られ、多国語で福音を語っていますが、それは弟子たちが急にその言葉を覚えたのではない、聖霊様が彼らの内に働かれ、語るべき言葉を、語るべき人たちへ語り、届けられたのです。だってそうでしょう?今目の前にいる人たちが何語の人なのか、どの人が何人なのか分からない。しかし神様は何人であろうと、その人に必要な福音を、救いを、今届けようとされたのです。

 

ある人は、これを聴いて「いったいどうしたことか」と言い、今すべきことを考えます。一方で別な人たちは「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と嘲り笑うのです。しかし、弟子たちが続きの箇所で言うのですが、彼らは昼間ですし、今酒に酔って飲んでいるわけではないのです。神様はお酒ではなく、神様の、上からの恵み、愛で、神様の霊で私たちを満たす、その息吹を、聖霊様で満たし、私たちを生きたものとさせようと、今その聖霊様が降られ、働かれるのです。何か特別な人に注がれるわけでもなく、全ての人にまことの命を得てほしい、と。

 

これは昔だけの話ではありません。今も続く神様の愛です。今も聖霊様が働かれ、様々な方法をもってあなたの命を得てほしい、と驚くべきことが成されています。神様が他国語で彼らに弟子たち(使徒たち)を通して語られているように、今日も神様はあなたに語りたいのです。命を得てほしい、とその御手を伸ばされているのです。あなたが苦しみの杯、滅びゆく杯から飲むのではなく、何かをごまかすように酒に酔うのではなく、真の命、御霊様に満たすため、神様のご意思が今注がれているのです。御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架上で死なれ、3日目によみがえられた、この事によって、この十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦される、新しくされ、今新しい命の息吹、聖霊様が私たちの内に満ち溢れる、満ち溢れさせてくださるのです。

 

パウロという人は「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」と言いました。酒に酔うのではなく御霊様が働かれなされる恵みに酔わせていただくといいますか、私たちは↑であざける人たちのように神様からこの頂いた命を放蕩するような歩み、神様をあざけるような歩みではなく、この喜びに満たされ、歩もうではありませんか。彼らに向けて神様が恵みを注がれようとしたように、今日あなたにも主の恵みがありますように。