あわれみって、大事ですよね。これ、誰もが気っと持っている。
これがあったらどれだけ幸いな世の中にあるのかな、と思うのですが…
↓はその「あわれみ」について、
私の尊敬する方の残した格言の紹介と、友人の解説です。解説がとても分かりやすいのと励まされるので、そのままシェアさせていただきました。
“あわれみ”は、単にクリスチャンの“仕事”ではない。
”あわれみ”は、クリスチャンの“しるし”なのだ。
~ティモシー・ケラー~(1950-2023)
昨年惜しまれて亡くなった、今世紀を代表する牧師・神学者ティム(愛称)・ケラーの言葉です。この短い言葉を、詳訳聖書よろしく、詳訳格言として再録してみましょう。
“あわれみ”(mercy 慈愛・親切)は、単にクリスチャンの“仕事”(job 役目、義務、責任)ではない。
”あわれみ”は、クリスチャンの“しるし”(mark マーク、標識、サイン、商標!)なのだ。
戦国の昔ならば、遥か遠くに見えても、その旗印によって、「三つ葉葵」ならば徳川、「風林火山」なら武田、「永楽通宝」なら織田と瞬時に見分けがつきました。現代なら、かじりかけのリンゴはご存じ「アップル」、クロネコは「ヤマト宅急便」と、一目瞭然です。また本人であることを示す印鑑も、次第に欧米式のサインに代わってきています。”しるし”は、その人であることのシンボル(象徴)なのです。
クリスチャンにとって、”あわれみ”は、単なるやるべき善行ではなく、誰が見ても、「あの人は正真正銘のクリスチャンだ」と分かる天の登録商標(証標!)でなければならないとケラーは断言します。つまり、クリスチャンとは、外に現れた言葉や行いだけでなく、私たちの心が”、イエス様のように、どんなときもあわれみ”で満たされていることなのです。
この“しるし”は、決して誇るためのものではありません。それは、”あわれみ”(愛の代名詞)を知らなかった者が、あわれみの心を持つ者にされたことの証明です。いいえ、その前に、クリスチャンとは、“神様のあわれみ”によって、罪を赦していただいた者です。”あわれみの人”ではなく、”あわれまれた人”であることの”しるし”(証印)として、クリスチャンはこの世に生かされていることを、片時も忘れないようにしたいものです。
(解説:元ワーナー・ブラザース映画会社の製作室長 小川政宏さん)
Mercy isn’t just the job of the Christian. Mercy is the mark of the Christian.
– Timothy Keller