あわれみ印の○○ | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

あわれみって、大事ですよね。これ、誰もが気っと持っている。

これがあったらどれだけ幸いな世の中にあるのかな、と思うのですが…

 

↓はその「あわれみ」について、

私の尊敬する方の残した格言の紹介と、友人の解説です。解説がとても分かりやすいのと励まされるので、そのままシェアさせていただきました。

 

“あわれみ”は、単にクリスチャンの“仕事”ではない。

”あわれみ”は、クリスチャンの“しるし”なのだ。

~ティモシー・ケラー~(1950-2023)

 

昨年惜しまれて亡くなった、今世紀を代表する牧師・神学者ティム(愛称)・ケラーの言葉です。この短い言葉を、詳訳聖書よろしく、詳訳格言として再録してみましょう。

 

“あわれみ”(mercy 慈愛・親切)は、単にクリスチャンの“仕事”(job 役目、義務、責任)ではない。

”あわれみ”は、クリスチャンの“しるし”(mark マーク、標識、サイン、商標!)なのだ。

 

戦国の昔ならば、遥か遠くに見えても、その旗印によって、「三つ葉葵」ならば徳川、「風林火山」なら武田、「永楽通宝」なら織田と瞬時に見分けがつきました。現代なら、かじりかけのリンゴはご存じ「アップル」、クロネコは「ヤマト宅急便」と、一目瞭然です。また本人であることを示す印鑑も、次第に欧米式のサインに代わってきています。”しるし”は、その人であることのシンボル(象徴)なのです。

 

クリスチャンにとって、”あわれみ”は、単なるやるべき善行ではなく、誰が見ても、「あの人は正真正銘のクリスチャンだ」と分かる天の登録商標(証標!)でなければならないとケラーは断言します。つまり、クリスチャンとは、外に現れた言葉や行いだけでなく、私たちの心が”、イエス様のように、どんなときもあわれみ”で満たされていることなのです。

 

この“しるし”は、決して誇るためのものではありません。それは、”あわれみ”(愛の代名詞)を知らなかった者が、あわれみの心を持つ者にされたことの証明です。いいえ、その前に、クリスチャンとは、“神様のあわれみ”によって、罪を赦していただいた者です。”あわれみの人”ではなく、”あわれまれた人”であることの”しるし”(証印)として、クリスチャンはこの世に生かされていることを、片時も忘れないようにしたいものです。

 

(解説:元ワーナー・ブラザース映画会社の製作室長 小川政宏さん)

 

Mercy isn’t just the job of the Christian. Mercy is the mark of the Christian. 

– Timothy Keller