―そばにいたいよ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は、祭壇のかたわらに立っておられる主を見た。主は仰せられた。『柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ。そのすべてを頭上で打ち砕け。わたしは彼らの残った者を、剣で殺す。彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない。彼らが、よみに入り込んでも、わたしの手はそこから彼らを引き出し、彼らが天に上っても、わたしはそこから彼らを引き降ろす。彼らがカルメルの頂に身を隠しても、わたしは捜して、そこから彼らを捕らえ出し、彼らがわたしの目を避けて海の底に身を隠しても、わたしは蛇に命じて、そこで彼らをかませる。もし、彼らが敵のとりことなって行っても、わたしは剣に命じて、その所で彼らを殺させる。わたしはこの目で彼らを見る。それは、わざわいのためで、幸いのためではない。』万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主。」

アモス書9章1-6節

 

辛い時には誰かが傍にいるという事ほど力強いことはありませんね。どこかのアニメ映画で、似たようなタイトルのものがありますが。以前、いくつかの教会で賛美の奉仕をさせていただいたときに、一緒に組んでいた人と選曲をして、選んだもので、stand by meがありました。あの歌詞のダーリン、という部分をジーザスに変えるだけで、驚くべき歌詞になることを知って。でもこれは願望的な歌ではなく、イエス様は傍にいてくださる方、そのイエス様から私たちは離れてはいけない。イエス様はあなたを壊すのではなく、回復させ、導かれるから。あなたを天の御国へ、神様の御もとへ。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。そこでアモスに神様は5つの幻を見せ、そのうち4つまで、彼らが世に、サタンに搾取されることなく神様に満たされること、神様がその救いの道を、共にいること、終わりの日が来る時までしっかりと神様につながり続ける事、神様との断絶、本当の基金が来る前に立ち返ることを示されてきました。

 

そして↑で神様は最後の幻、5番目の幻をアモスに見せます。まず神様は、神様ご自身が祭壇の傍らに立っておられる姿をお見せになります。そして「柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ。そのすべてを頭上で打ち砕け。わたしは彼らの残った者を、剣で殺す。彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない」と仰られました。これは神殿を打ち壊すことを語られているのですから、神様の神殿、というよりも、北イスラエルにある偽物の神殿を指しています。ここでは豊穣のために子どもを火にくべたり、淫行を伴う祭事をしたりしているとんでもない場所、これを神様は破壊するように命じるわけです。

 

神様ご自身が直接その宣言をされる、これは非常に大きなことだと思います。神様は柱頭を打つように仰られていますが、覚えているでしょうか?士師記の分かち合いの中でサムソンが神様に立ち返り、ペリシテの神殿の柱頭に寄りかかり、崩れ、二階にいた人々がみな落ちて来て、下にいる人々はもちろん下敷になり、死んだという出来事を。まさにそれと同じことを、今よりすがっているベテルの神殿でも起こし、さらに生き残った人もアッシリヤの兵によって剣で殺されるのです。

 

これは残酷だ、と言われるかもしれませんが、そもそもこれは5つ目の幻、最後の幻です。神様はこれまでさんざん立ち返るように警告してきた、ある意味では逃れる機会はあった、神様に立ち返る機会はあったはずなのです。

 

ただ、実は↑の続きで神様の最後の「それでも」生きてほしい、という訴えが出てくるのですが、神様はそれでも本当に終わりの時が来る前に何とか生きてほしい、となお訴えているのです。語られたこの瞬間、彼らが寄りすがっていた神殿が崩れ去り、アッシリヤ捕囚が起こるわけではない、だからそれまで好き放題、何をしていてもいい、ではなく、今神様の救い、解放の時が来ているのだから、神様に立ち返ろう、とその戸口であなたを待っているのです。

 

そもそもの話なのですが、神様が立っておられたのは祭壇です。祭壇は、本来全焼のいけにえなどをささげることによって、罪の赦し、神様との和解が成される場所、つまり神様と繋がる場所なのです。本来は回復する場所なのです。しかし、彼らは偽りの祭壇、偽りの神殿を建て、これによりすがり生きている、その別な意味で壊れた神殿を神様が壊され、新しくされる、回復させたいのです。神様が神殿、私たちの宮に住まわれる時、私たちは回復させていただけるのです。神様はその祭壇で、本来民と神様が出会う場所であなたを待っているのです。その戸口に立って、あなたがあなたという家、神殿、あなた自身の内に招くのを。

 

そういえば、イエス様の12弟子の一人だったヨハネに啓示された預言の中でイエス様は、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」と語られました。

 

愛する者を叱ったり、懲らしめたりする、と言いますが、愛しているのに?と思われますか?いえ、愛する我が子が危険な状態にあるなら、助け出し、言い聞かせませんか?子供が自分のことを嫌いになることを恐れて叱ることをやめたらどうなるか、明白ですよね。それはその子に生きてほしいからです。同じです。神様は私たちが生きるために、あるべきところへ導いて下さるのです。悔い改めて立ち返ってほしい、方向転換、心の方向転換をし、神様の恵みに生きてほしい、と。

 

イエス様は、このままあなたが神様から離れて死にゆくことは忍びない、放っておいて、じゃあ好きにしなよ、ではなくあなたを救いに招くためにノックをされたのです。放置をされなかったのです。神様は↑で厳しいことを語られていますが、最初から放置してもよかった、でも神様はそれでも翻って生きる事を願い、今最後の訴えをされているのです。イエス様ご自身が彼らの中に住まい、共に食事をする、生きる、そして勝利を得るものとしてくださるのです。

 

神様は↑で続けてアモスを通して「彼らが、よみに入り込んでも、わたしの手はそこから彼らを引き出し、彼らが天に上っても、わたしはそこから彼らを引き降ろす。彼らがカルメルの頂に身を隠しても、わたしは捜して、そこから彼らを捕らえ出し、彼らがわたしの目を避けて海の底に身を隠しても、わたしは蛇に命じて、そこで彼らをかませる。もし、彼らが敵のとりことなって行っても、わたしは剣に命じて、その所で彼らを殺させる。わたしはこの目で彼らを見る。それは、わざわいのためで、幸いのためではない」と厳しい宣告をされます。

 

神様はここで、陰府にいっても、天に上っても、そこからも引き降ろすということです。神様は天においても、地においても、そして地の下においても全ての力と権威を持っておられる方です。それを変えることができるのは逆に言えばやはり神様です。また、カルメル山、イスラエルにおける一番高い山だそうですが、そこに逃れようとも、海の底、レビヤタンという恐竜がいる場所で苦しもうとも、神様はそこに介入されることができるのです。

 

ただ、先ほど祭壇のところに神様ご自身が立っておられること、戸口に立って悔い改め生きる事を願ってノックしておられることを申し上げましたが、まさに、本来神様の恵み、神様の子として生きるはずの私たちが罪によってその神殿は壊れ、罪人となってしまった、その恵みを失い、引きずりおろされたはずの私たちを神様はそれでも無視せず、憐れまれ、悔い改めよ、と立っておられるのです。生きよ!と。災いを幸いに変えるために。これがひっくり返されるところを明日分かち合いますが、神様は明日と言わずあなたが死ぬ前に、恵みを失い死にゆくことを見過ごせない神様はあなたをその壊れゆく神殿から連れ出されるのです。そしてご自身のもとに、神様の家族に引き上げようとされるのです。レビヤタン・サタンの手から救い出すべく。

 

そこで、神様は壊れゆく神殿によって死ぬべき私たちを生かすために、イエス様をその祭壇で全焼のいけにえとして身代わりにされたのです。私たちの全ての罪を洗い聖めて新しくするために。神様はイエス様を私たちの罪の身代わりとされ、そのイエス様に私たちが負うべき罪の刑罰、死を背負わせた、罪を背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされるのです。その神殿は確かに死によって壊される、しかし、その神殿から逃れる者はいない、とあるようにあなたをもう追いかけるものなどいない、全てを壊し、新しくしてくださる。復活のイエス様ご自身があなたのうちに住まわれ、新しいいのちをあなたのうちに建て上げられる、回復してくださるのです。勝利を得させてくださる、神様の食卓に与り、神様の恵みをいただきこれに生きる事を赦されたのです。

 

イエス様は十字架からあなたを命、救いへと今日、招かれています。今日生きてほしい、と今日語られる、今日悔い改める、方向転換して、神様に立ち返り、イエス様が命がけで与えられたこの命、この道を生きてほしい、とあなたが閉じこもっているところ、苦しみに閉じ込められているところから出てきて共に生きよう、とその戸をノックされているのです。あなたを災いから言引き上げ、幸いなものとするために。あなたに生きてほしい、と今傍に立っておられる、あなたがイエス様の側にいて、寄り添い、また生きる事を願って。

 

最後に神様は「万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主」と語られますが、あなたが悲しみに沈むのではなく喜びの涙に変えられるように、今日もイエス様はあなたを招かれます。パウロという人は「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」と語りましたが、あなたのために涙を流されるイエス様はあなたのために命をかけられた、それほどにあなたを愛し、あなたの側で、あなたのうちに住まい、導かれます。死ではなく命へと引き上げられるのです。私たちは世のもたらす悲しみに生きるのではなく、それを壊し、新しくされる、新しい命に変えられるイエス様と共に今日生きよう。いつかは枯れ果てるナイルの川ではなく、その恵みをあなたのうちにイエス様の十字架の愛ゆえに惜しむことなく、尽きることなく溢れ流れさせ、あなたを生かす神様に信頼し。