「神である主は、私にこのように示された。見よ。王が刈り取ったあとの二番草が生え始めたころ、主はいなごを造っておられた。そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。『神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。』主はこのことについて思い直し、『そのことは起こらない』と主は仰せられた。神である主は、私にこのように示された。見よ。神である主は燃える火を呼んでおられた。火は大淵を焼き尽くし、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。私は言った。『神、主よ。どうか、おやめください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。』主はこのことについて思い直し、『このことも起こらない』と神である主は仰せられた。主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた。主は私に仰せられた。『アモス。何を見ているのか。』私が『重りなわです』と言うと、主は仰せられた。『見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。』」
アモス書7章1-9節
喧嘩状態、不仲、赦さない、という状態、これはどこにでもあるといえばありますが、それを放置するとどうでしょう。まあ、当人が実は気づいていない、という事もあるのでしょうが。では神様との関係はどうでしょう。私たちは神様に造られ、神様が私たちを養い、守り、導いて下さっている、だから生きているのです。しかし神様から離れては私たちは本当の意味では生きていない、生きられないのです。イエス様は、もしその人が悔い改めるなら、何度でも赦すように教えられました。イエス様は、その歪んだ関係を回復させるため、ご自身のいのちさえ惜しまず与えてまであなたを和解へと進ませてくださったのです。私たちはこの究極の愛によって和解された、そこに注がれている神様の恵みから離れず歩もう。神様が新たに建て上げてくださる日々を喜び歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。そこでアモスに神様は5つの幻を見せ、語られます。↑は前半の3つになります。
まず最初に神様はアモスに「見よ。王が刈り取ったあとの二番草が生え始めたころ、主はいなごを造っておられた。そのいなごが地の青草を食い尽くそうとした」様子を示されます。これはどういうことなのかと申しますと、まず第1に、民が納税として王に収めることを現しています。王宮のための食糧のみならず、王に仕える軍があり、また軍馬もいます。食糧としての作物だけでなく、その家畜や馬の食べる草も必要です。初めの収穫が王に収めるものですが、その後に生え出る収穫を二番草と呼ぶそうです。実際にこれまで見てきましたように、王は民から搾取し、上流階級の人たちの問題も出ていましたね。彼らが搾取した結果、民が貧困にあえいでいる。まさにこの神様の示された幻の通りです。だから、神様が彼らを討つ、と。まあでもこのような搾取は今もありますね。
実はこの問題について、イスラエル人が王を求めた時、当時のイスラエルの預言者サムエルは「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える…」と、まさにこのことを預言していたのです。まあ、この事はもうソロモン王の時代からあったのですが。
イスラエルの民には神様がいました。天地創造の時からずっと守られ養われ導かれてきた神様が。エジプトで奴隷として400年近くにわたり捕らえられようとも救い出され、約束の地に帰る道中もその荒野の旅を守り、全ての必要を40年にわたり満たし、共に戦い導かれた神様が、途中神様を捨てようとした民がいたにもかかわらず彼らを思い、約束通り先祖に与えると約束された地に帰ってこさせてくださった、その後も神様が守られ、今日に至るではないか、とサムエルは言うのです。
↑の2番草の幻の本質はこうしてみると、じゃあ搾取しなければいいの?いつか痛い目を見るからね、という話ではないのです。神様はサムエルに彼がこのように語る前に「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」と語り、民のもとに遣わされました。
彼らの問題は神様を退けたことにありました。本来私たちは、神様の富、溢れんばかりの、尽きることのない恵みによって生かされています。私たちは気づいているでしょうか?神様は私たちの気づかない当たり前と思っている中で豊かに働かれ、日々養ってくださっています。衣食住何を取ってもです。当たり前にあるように見えて、全ては神様の恵みです。すべての食物は神様の創造から始まりました、全ての住む場所は神様の造られたこの世界の上にあります。神様がそれでも日々支えてくださっているはずです。あなたのからだだって当たり前に生きていると思っているかもしれませんが、誰が自分の意思で心臓を動かせますか?神様の創造の御手の中にあって私たちは今生かされているのです。
↑の幻で示されたことはただ搾取している問題にとどまらない、神様を退け富をむさぼっている、そうして実は彼らの内に神様から注がれるはずの恵みを失ってしまっている、枯れ果ててしまっている、そこに問題があるのです。本来の王の権利として、神様の権利として彼らを、2番草、残ったはずのものまで食い尽くす権利は神様にはあるのです。↑の2番目の幻の「神である主は燃える火を呼んでおられた。火は大淵を焼き尽くし、割り当て地を焼き尽くそうとしていた」というものだってそうです。神様は神様から離れ好き勝手に生きる彼らを、私たちを焼き尽くす事もできます。彼らの時代ならアッシリヤ捕囚です。2番草まで食い尽くすのは、王だけではなく民たちも捕囚されていくことは。捕囚によって焼け野原のようになるのは。
しかし、王といいますか、神様の権利は私たちを搾取するだけの王とは根本的に違うのです。いや、することもできる、奪うこともできる、でも神様は与えたいのです。本当のいのちで、恵みで、神様の尽きることのない恵み、全てをもって、神様ご自身をもってあなたを満たしたい。それを退けたら私たちはどうして生きていく事ができるでしょう。神様を退ければ、他の何かに私たちの心や魂は奪われるだけです。世の思い煩い、痛み、悲しみ、何より罪にに支配され、サタンにあなたが刈り取られてしまうだけです。神様の恵みを奪い去られて焼き払われてしまう時どうして私たちは立ち上がる、生きることができるでしょう。
神様は義ですから、そうする権利もあるといえばあります。しかし、神様はそれを思い直されたのです。アモスにただ語って終わりではなかった。神様は思い直されたのです。赦しを懇願するアモスに、「そのことはしない」と。神様はそれでも愛することを選ばれたのです。退けられるはずの神様が、彼らをそれでも、と招かれたのです。
ただ、何でもいいよいいよ、ありのままでいいよ、と神様は仰られたのではないのですよ?アモスは「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです」と神様に懇願します。ただそれだけはご勘弁を、といっているのではなく、神様に民の一人として悔い改め、私たちは神様なしには生きられない、小さなものなのです、と神様を求めた、それ故に神様は彼らを待つことを選ばれた。「そのことはしない」と仰られたのです。
ただ、↑の3つ目の幻では、神様は「そのことはしない」とは仰られません。アモスに「天から垂れ下がる重り縄」の幻を見せます。そして「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう」と宣言されるのです。
この重り縄というのは、わかりやすく言いますと基準です。これを使って建物の壁がまっすぐになっているかどうかを調べるものです。そう、神様は一つの救いの道を示されたのです。この神様という基準と言いますか、神様に立ち返る時、生きる、彼らがまさにここで語られているように滅ぼしつくされないように、食い尽くされ、焼き尽くされることがないように、神様は今立ち返るように、この重り縄を見て帰る、神様はそれでも愛を注がれているという意思を示されたこの幻を見て立ち返るように示されたのです。アモスがしたように「赦してください」と悔い改めることを。
神様はその究極の基準として、御子イエス様を、私たちの重り縄とされました。天から降ってこられたイエス様は、私たちと同じように歩まれ、その重荷を背負われ、ついには十字架に私たちの痛みも悲しみも、罪も一切を背負われかけられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦され、神様の子として迎える、同じ復活の恵みに招かれることを宣言されたのです。天と地をつなぐ、神様と繋がれるまさに基準と言いますか、救いの唯一の道をイエス様のいのちをもって示された。ここに命があるんだ、このイエス様の愛があなたの内に注がれる、まさにそのしるしなんだ、と御子イエス様のいのちを惜しまない愛を持って今示されたのです。
私たちはもう神様に立ち向かっている場合ではない、神様に攻めこんでいる場合ではない、神様を退けている場合ではないのです。むしろ神様がこの御子イエス様のいのちをもってまであなたを愛されたしるし、これは幻やいつか翻されるものではなく、永遠の約束です。あなたが悔い改め立ち返り命を得る、神様のイエス様にあって示された尽きることのない恵みをもってあなたを養い導かれるというこの約束を、あなたはどう受け取るでしょうか。神様の道は真っすぐ、天につながるものです。私たちはこのイエス様にあって示されたこの究極の愛を疑わず、右にも左にも逸れず、ただ信頼し歩みたいものです。この世の約束、価値ではない、天からの約束、天と地を結ばれたイエス様の十字架の愛による約束に信頼し、歩もうではありませんか。