―あなたをつまらないものにしないために― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主は、ご自分にかけて誓われる。―万軍の神、主の御告げ―わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す。一つの家に十人残っても、その者たちも死ぬ。親戚の者でこれを焼く者が家から死体を持ち出すために、これを取り上げ、その家の奥にいる者に向かって言う。『あなたのところに、まだいるか。』彼は言う。『だれもいない。』また言う。『口をつぐめ。主の名を口にするな。』まことに、見よ、主は命じる。大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ。馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、『私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか』と言う。『まことに、イスラエルの家よ、今、わたしは一つの民を起こしてあなたがたを攻める。―万軍の神、主の御告げ―彼らはレボ・ハマテからアラバの川筋まで、あなたがたをしいたげる。』」

アモス書6章8-14節

 

みなさんは自分をどんな存在と考えていますか?あ、別に自己啓発系のことを聴いてるわけではないですよ?人は妙に自分を卑下するところがありますが、大切なことを忘れてはいけません。あなたは、あなたの周りにいる人はどうでもいい存在ではありません。何か偶然人になった、という存在でもありません。神様がその魂を与え、造られた、大切な存在であることを。神様は何もしてくれない、とある人は言うかもしれない、でも神様は私たちが気付かない中で、当たり前と思っている中でもいつもあなたを養い導いて下さっている、御子イエス様のいのちを持ってまであなたを救われる方が、今日あなたと共にいることを忘れないでください。あなたをつまらないものではなく、最高傑作にしてくださった神様が、今日あなたと共にいるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国が分裂して、南ユダをウジヤ王が、北イスラエル王国をヤロブアム2世が統治していた紀元前785年頃の話になります。当時の北イスラエルはある意味では繁栄していましたが、貧しい人たちを虐げ、その格差は大きく広がり、また偶像崇拝によって苦しんでいました。そのような中で神様は、北イスラエルを含めた周辺諸国に対して宣告を行っていきます。ただ裁いて終わりとするのではなく、彼らが選びの民、大切な、愛する子ゆえに見捨てられない、死にゆくことがないように、あなたに生きてほしい、と。それゆえにさ迷い歩く迷子の羊を命がけで捜す羊飼いのようにあなたを探しに来る、その正義を、愛を曲げることなくあなたへの愛を貫き通される、この神様を求めて生きよう、その恵みに生きよう、と神様はアモスを通して訴えてこられました。

 

神様はなおアモスを通して「神である主は、ご自分にかけて誓われる。―万軍の神、主の御告げ―わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す」と語られます。

 

アモス書全体がそうですが、とても厳しい内容が続いています。ただ、神様は何を、ここでいうなら忌み嫌い、何を憎まれるのか、この本質を私たちは忘れてはいけません。神様は北イスラエルの捕囚について何度も語られていますが、まだその時が来ていない、だから好きにするのか、それとも立ち返るのか?それが今問われているのです。悪の手、この時代ならアッシリヤの手によって「引き渡」されることがないように。

 

それにしても「わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む」という宣言は強烈なものがありますね。いやそれは他の人の事でしょう?とこれを読まれた方は感じるかもしれませんが、そもそもの話が、私たちが神様から忌み嫌われてしまったら、いったいどうやって生きていく事ができるのでしょう。神様から憎まれたらどうやって生きるのでしょう。別に神様などいなくても生きていける?しかしそこに待っているのは手引きをしているサタン、罪の呪い、彼らの思うツボです。

 

神様は本来私たちをご自身の手によって最高傑作として造られたのです。進化や何やらによってできた存在ではないですよ?神様が丹精込めて、その愛を注がれ造られたのがあなたです。あなたは決して無価値なものでもなんでもありません。その神様が見捨てずあなたに生きてほしい、と願われ養われ導かれてきたからこそ、今日あなたという人が存在しているのです。ここにあるのです。あなたは決して無価値な存在ではありません。その神様の最善の導きを、愛から私たちが離れてしまったら、失われてしまったら、私たちはある意味では死、生きたものから死んだものとなってしまう。

 

そう、私たちは神様の誇りにかけて、その愛が注がれ生かされている、だからその神様から離れて、自分がすべて、という誇りによってこの恵みを失われることを、あなたという神殿が別のものに支配され、壊されていく事を忌み嫌われ、また憎むのです。北イスラエルはアモス書の分かち合いを始めた時からずっと紹介してきていますが、自分の事しか彼らは考えず、他の弱った人を助けることをせず、重荷を互いに担うことをせず、自分自身のことしか考えない状態になっていました。自分たちの地位は自分たちの力で得たのだ、自分たちこそが優れている、と上層部、特権階級の人たちは考え、弱い者たちを虐げ、真理を曲げ(裁判においては、富んでいる人が勝つ、貧しい人はその真実を捻じ曲げられ、泣き寝入りをしなければいけないなど)完全に歪んだ状態となっていました。

 

かつて古代イスラエル王国2代目の王だったダビデという人は、多くの敵や問題を見てきました。彼の前の王は神様の御前に誇り高ぶり、結果神様の恵みを、最後は本当に命を失ったのを見ました。そのダビデは「誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。…こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」と、その体験から詩に残すのです。そのようなものは取り除かれる、と。逆に虐げられている人たちを神様は顧みてくださり、救い出されることも見えてきますね。むしろ、神様に身を避けるものを喜びに満ち溢れ、その歌声で満たされる、と。そうして取り除かれた誇りを神様は神様の大いなる祝福、愛に変え、満たされるのです。

 

また、まだイスラエル王国建国が成される前、やがてその王国を支えることになるサムエルという人が生まれる前の話ですが、彼のお母さんハンナは、旦那さんのもう一人の奥さんから虐げられていました。彼女が子供を宿すことができない(神様がその時が来るまで、と胎を閉ざされていたから)から。彼女は思い悩み、神様に祈りに生きます。それこそ、あまりに必死に祈る者ですから、祭司が、酒に酔ってここに来たのか、と疑うほどでした。

 

しかし彼女は必至で、ついに神様は彼女の胎を開かれ、やがてイスラエルを支えるサムエルを胎内に宿すのです。その時、彼女は「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます…」と祈るのでした。

 

ここである「角」というのは力を意味する言葉なのですが、私たちは確かにどうにもならないこともあります。またもう一人の奥さんのように自分が優れているから子供が与えられるんだ、と驕りたかぶるものもいます(そもそも人は神様によって命を与えられるので、誇り高ぶること、自分の能力云々というのはおかしな話なのですが)。しかし、他に並ぶもののない、それこそ、全てを与え、いのちこそ与えてくださる「主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせ」てくださるのです。

 

神様は↑でこれから北イスラエルがアッシリヤによって連れ去られていく事を語られますが、そのようなものを継がせるために彼らを愛された、選ばれたわけではありません。そのような絶望下に殺されること、死んでいく事、貧しくなることを良しとはできない。神様は、あなたという宮、神殿がそうした死に、あなたを貶めて良く何かによって、サタンによって支配されることを望まれないのです。その支配されていく支配者を神様は憎まれる、サタンを憎まれ、これを取り除きたい、と今だからこそ訴えるのです。栄光の位を彼らに、あなたに受け継がせるために。憎しみではなく喜びで、神様の富で満たすために。

 

↑で、神様から離れてしまった者、自分を神のように考え、自らを誇り、またふるまうものたちへの裁きが厳しい言葉で語られています。先ほど挙げましたダビデの詩も、このハンナの祈りもそうです。高ぶる者への神様の裁きについてもはっきりと書かれています。なぜそこまで神様は徹底して語られるのか?あなたが死ぬ、死に、サタンに引き渡されるのではなく、神様の恵みゆえに、愛ゆえに生きたものとなるためです。それこそ↑の途中で「あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、『私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか』」と宣告されている通り。

 

実はこのロ・ダバルという町はありません。ロ・デバルという町は彼らは勝ち取り持っていますが。ロ・ダバルというのはつまらないもの、という意味だそうで、神様はそのようなつまらないもの、やがて滅びる、いのちをうしなっていくものではなく、とこしえに変わらない愛をもってあなたを生かしたい、とその愛を注がれるのです。つまらぬものであるはずの私たち、見捨てられて死にゆくしかない私たちを救うために、神様は御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、死なせたのです。しかし、3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

どうか忘れないでください。あなたを今日生かし養い、導かれている神様はつまらないものを与える神様ではなく、罪人という滅びるしかない、つまらないものから、神様の子という特権に招き入れられた、最高の恵みに変えられた、御子イエス様のいのちゆえに恵みが今日注がれているという事を。死に引き渡されるのではなく、神様のふところに抱きしめられ、迎え入れる、その神様があなたと共におられ、あなたの内にイエス様が住まわれあなたと共に天の御国にまで進まれる、その最高の特権に今あずかっていることを。もうわたしたちはつまらないものにとらわれるのではなく、この神様の最高の恵みを日々求め歩もう。神様の喜びが今日、あなたの内に満ち溢れますようお祈りいたします。