―どんな時でも忘れてはいけない大切な事― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

使徒の働き1章12-14節

 

物事には優先順位があると言いますが、それは時と場合によって使い分けられてしまいます。しかし、私たちが忘れてはいけないのは祈ることです。聞いてくださる方がいる、生きた神様が、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまない神様が聞いてくださっている、この恵みを覚えよう。あなたが思うよりもはるかに超えた神様の御心があなたの内に現されるから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、死なれ、3日目によみがえられて後、天に昇られた後の出来事です。弟子たちはイエス様が十字架に架けられ、死なれて復活するまでの間、彼らは茫然自失としていて家に鍵をかけ、閉じこもっていました。自分たちがイエス様と同じようにとらえられ、殺されてしまうのではないか、これまでイエス様がいたけど、もういない、と考えていたからです。

 

しかしイエス様がよみがえられ彼らはある意味で復活しました。もう恐れるものは何もない、と。イエス様の昇天後、ある意味では目に見えた姿はない中で、彼らは恐れることなく、大胆にこれらか活動を始めていきます。表に出ていきます。この先の箇所で3000人以上いた群衆、また諸外国から訪れていた人たちに向けてイエス様のことを語るようになるのです。

 

その前に彼らは大事なことをしていました。それは祈っていた、ということです。祈る暇があればもっと外に出ていきなよ、という方がいるかもしれません。実践が大事なんだ、と。でもそうではないのです。イエス様は、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と教えられました。何をするにもまず祈ろう、と。この祈りはイエス様が来られてから始まったのではなく、古代からずっと続いています。アダムとエヴァの時代からです。神様は聴いてくださる、聴いてくださる方がいる、その方が祈るように教えられたのです。それに神様が答えてくださるからです。

 

彼らは部屋に閉じこもるのではなく、屋上に出て祈っていました。そうしたら声は聞こえますから、下手をすれば兵士たちが彼らを捕えるかもしれない、とは彼らは恐れず考えなかったのです。イエス様が昇天されて自分たちは孤独だ、とは考えなかったのです。イエス様が、鍵をかけ閉じこもっていた彼らの家の中に入ってこられたように、今イエス様が生きておられる。死んで終わりではない、復活されたんだ、この復活されたイエス様が天に昇られたのは死んだ、という事ではない、いなくなったという事ではない、以前イエス様が「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています」と仰られていたように、今もイエス様は生きておられ、私たちのために日々備えてくださっている、イエス様が道となって私たちを導くんだ、なにも恐れることはない、と彼らは確信していたのです。

 

彼らはものを言わない何かではない、死んだものでもない、生きたイエス様に祈っていたのです。この方が天を開き彼らとまさにつながってくださったのです。あのイエス様が私たちの罪の身代わりにかかられ死なれた十字架と復活によって。このイエス様を受け入れるものにとって、神様との障壁になるものは何もないのです。あなたをイエス様の罪ゆえに、悔い改めたすべての人を赦し迎え入れてくださった神様があなたを待っているのです。

 

祈りは宗教行為ではありません。ただ祈ればいい、というわけではなく日々のイエス様を求める中につながらせていただいているのです。日々の歩み、イエス様を求めること、それがある意味では祈りであり、その中に神様は栄光を現して下さる、その御心を現して下さる、天地をはるかに超えた神様の御心が、ご計画が成し遂げられていくのです。あなたのいのちを広げ、導かれるのです。

 

そこにはイエス様の弟子だった、家族だったとかそういう垣根はもうありません。むしろみな今、神様の家族とされたのだから。もう私たちは閉じこもっている場合ではない、罪の中に、暗闇の中に、世に閉じこもっている場合ではありません。イエス様のいのちにあって新しくされた、開かれたこの命、イエス様を大胆に求め歩もうではありませんか。神様との間にもう壁を自ら作ってはいけない。むしろ神様が開かれたこのいのち、喜び歩もう。