「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった。それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」
ルカによる福音書24章36-53節
物事は時間とともに衰えていく(人間のからだもある意味ではそうですね。最近はアンチエイジングという考え方もありますが)といいます。何かを加えてその下降傾向をおさえることはできても、何もしなければ衰えていくだけです。まあある人は、人の心も時とともに…と言っていたのは若干ショックではありますが、あながち間違いでもないんですよね。それは完璧な人はいないから、使い手もそうですが、人間関係においても完ぺきな人などいない。神様がそこにいるから、生きるのです。神様が新しくしてくださる、回復させてくださる。私たちは神様との関係を衰えさせてはいけません。私たちはもっと神様を求めよう。もっと神様の御心が溢れること、栄えに満ちた喜びに、この地が満ち溢れることを祈り。
さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ、罰せられ、死なれ、3日目によみがえられたところから、昇天されるところまでのできごとになります。イエス様がよみがえられたことを女性たち(マグダラのマリアなど)は御使いから聞いて、弟子たちに伝えるも、彼らは最初は信じず、自分たちの目で墓をその後見に行くも、やはりイエス様を見つけられませんでした。女性たちは、墓にいなかった、御使いたちはここにはいない、と告げられていたのに、また改めて墓を探しに行くあたりはまだ信じられなかったのでしょう。そして、他の弟子たちにイエス様は出会われ、彼らを通してイエス様はやはり生きているんだ!と知った彼らは食事をします。そこに↑、イエス様が来られ、その真ん中に立たれたのです。
どうも、他の福音書の記者、12弟子のひとりヨハネ(その場に居合わせた一人)の記録によると、弟子たちは自分たちがユダヤ人たちにつかまるのを恐れて、戸を閉めて閉じこもっていました。イエス様はどこにいるのか分からない、イエス様がこれまで一緒だったから大丈夫だったけど、今ユダヤ人たちがイエス様と同じように捕まえに着たら自分たちはどうなるのか、いやこの先どう生きていったらいいのだろう、という不安があったのでしょう。
そこで、↑で「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」と語られるのと同時に、イエス様は、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と語られ、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」とも語られました。
イエス様は、彼らが十字架の前に逃げ出したこと、ペテロが裏切ったことを含めて、それでも彼らを赦されたのです。彼らの恐れ、不安をイエス様ご自身が彼らに触れられたのです。彼らを見捨てられるのではなく、変わらずその愛を注ぎ、彼らが平安を、永遠のいのちを得ることを願われたのです。そこで彼らの心にかかった鍵を開き、イエス様の愛が、赦しが彼らを覆ったのです。彼らの内にイエス様は息・聖霊様を吹き込まれ、本当の平安をもたらしたのです。偽物のいのちではない、イエス様のからだ、復活のからだが、いやイエス様ご自身が彼らの血となり肉となり、彼らを癒し、新しくしてくださる、同じ復活の恵み、喜びに満たされた、イエス様の「持っている」すべてを今彼らに注がれたのでした。
いやそれだけではありません。イエス様は40日後に昇天されますが、イエス様は変わることなくその愛を注がれるのです。↑でイエス様は「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と語られました。イエス様の苦しみは苦しみで終わらず、死者の中からよみがえらせていただいたことによって、まさにこのイエス様の十字架にあって赦し、和解が起こるのだ、と。そしてここから広がっていくんだ、と。
その上でイエス様は、彼らに新しい助け主、聖霊様を送られることを約束されました。いと高きところから力が着せられるのです。ペテロという人は、この時イエス様が「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」と仰られていたこと、約束されていたことを証言します。
要するに、聖霊様に満たされる時、神様の御業があなたを通して現される、神様の愛が、ご意思が、まさにあなたの内に注がれるのです。だからそこに不思議なことが起こる、まさかこんな人が?という人も救われたり、癒しが起こったり、立ち上がれず思い悩んでいた弟子たちが立ち上がったように、立ち上がれるように。
イエス様は昇天されようとも、その御業は、その愛はまだやんでおらず、今日もあなたに変わらず注がれています。もう新しいからだを、力を着せられているのです。ご自身のいのちを、あなたの身代わりに十字架に背負ってかかられ、罰せられ死なれるほどに愛されたイエス様があなたに。
あなたはこれを受け取っていますか?イエス様はあなたからすべてにおいて離れず今日も共におられる、あなたはイエス様から離れていませんか。あきらめて、鍵をかけて閉じこもっていませんか?私たちはむしろ、イエス様と古い自分から出ていき、新しく一歩踏み出そう。今やイエス様のいのちを、御力を着せられたのだから、私たちは恐れることなく、この新しいいのちの内に神様の驚くべきことがなされること、神様の御栄が永久にあることを、イエス様のいのちにあって結ばれた、和解された神様の約束が、私たちの想像をはるかに超えた神様の大いなるみこころが、恵みが溢れることを祈りたいものです。
