―希望の道― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。『エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。』イエスが、『どんな事ですか』と聞かれると、ふたりは答えた。『ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。』するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた』と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。」

ルカによる福音書24章13-35節

 

我が家は引っ越し族だったので、出会いと別れが非常に多かった気がします。とても仲良かったのに、会えなくなったときは子どもながらとても悲しみました。ただ、10数年たった時何かのきっかけで古い友人と再会した時、本当に感動して、ハグし、また祈り合ったのを覚えています。一方神様。私たちは神様は今何をしているの?と思いたくなる時がありますが、私たちが離れているだけで神様は傍にいます。私たちの心、目に覆いがかかっているだけで神様はあなたと共におられ、あなたを命の道へと導きたいのです。あなたは一人ではない。神様が導かれる新しい命の道、イエス様が命がけで連れ戻してくださったいのちの道を歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が十字架にかかられ、3日目によみがえられた、その日の出来事。↑の前では、マグダラのマリヤ(よく姦淫の女、と間違えられますが、違います。7つの悪霊につかれていて、イエス様に癒された女性です)とヨハンナとヤコブの母マリヤたちが、イエス様のおからだに香油を塗ろうとしたところ、イエス様は墓にはおらず、よみがえられたことを御使いに告げ知らされるという事がありました。彼女たちは弟子たちのところに告げに行くも、彼らはたわごと、と考え、信じてもらえませんでした(ペテロは信じたようですが)

 

命をかけてまで愛されたイエス様が、未だに信じられないという彼らをイエス様は見捨てる、もう出会ってくださらないのか?いえ、そうではないことが↑から見えてきます。クレオパという男性ともう一人のイエス様の弟子(2人は12弟子ではなく70人の弟子たちと考えられます。12弟子の現状を知っていることから)が、エマオ(温泉)に向かっている途中、イエス様のおからだが墓からなくなっていたという女性たちの話について論じていました。

 

そこに復活されたイエス様が近づいてこられ、「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか」と彼らに尋ねます。もちろん、イエス様は彼らが何を話していたのか、それは分かっていました。そして彼らがイエス様の復活を疑っている、御使いの話を女性たちを通して聴いていて、墓まで行ってもなお信じられないでいることを聞いて、イエス様は落胆され…ず、彼らを見捨てて離れるのでもなく、イエス様から近づいてきて、彼らの話を聞いてくださったのです。

 

イエス様は十字架にかかる前からご自身が、十字架の死後3日目によみがえることを宣言されていた、また御使いを通しても復活を告げられたのに、いまだに信じない、イエス様はいのちをかけて愛されたのに、なんだそれは、とは考えなかったのです。むしろ彼らの目の覆い、心の覆いを取り除く、というよりも平安で覆う、空っぽになってしまった彼らの心をイエス様ご自身で満たそうとされたのです。

 

そこでイエス様は「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と仰られ、イエス様は、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中(ようするに旧約聖書、天地創造から歴史の中にあっても神様は預言者などを通して語られてきたこと)で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされるのでした。イエス様は突き放されるのではなく、むしろこの歴史が、この神様が紡ぎ続けて下さった愛を、イエス様の十字架にあって成就、実現したんだよ、と一つ一つ紐解きながら語るのでした。

 

私たちだって完璧な人間ではないですから、墓の中に閉じこもるような、暗い時だってあります。しかしイエス様はそれを、不信仰だのなんだのと突き放してみてるのではなく、一つ一つ紐解いてくださり、私たちの不安の雲を過ぎ去らせてくださり、主の光が、復活の光、希望、いのちであなたを照らし、満たしてくださるのです。その時、↑の最後でイエス様と話していた時の彼らの心が「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と言っていたように、心燃やされ、神様の霊で満たされ喜びの新しい命、一歩を踏み出させてくださるのです。彼らとイエス様は食事をしたように、イエス様の新しい命の交わりが、神様の家族として招かれた新しい命の交わりが、歩みがここから始まるのです。

 

イエス様の十字架によって引き裂かれた御からだ、流された血潮は、復活と共に私たちに新しい命、新しい神様の子としての血、いのちの血となり流れ、満たされる。古いものはすべて過ぎ去ってイエス様のその愛で私たちは今日生かされているのです。もうこのイエス様から離れてはいけない。彼らがイエス様にご一緒してください、と求めたように、私たちもご一緒、と言いますか、イエス様の導かれる道を行かせていただこうではありませんか。悲しみの道ではなく、空っぽの道ではなく、喜び、情熱にあふれた、イエス様が開かれたこの道、いのちなのだから。またこの喜びを、2人が他の弟子たちに分かち合ったように、私たちも愛をもって隣人に仕え、分かち合い、このイエス様の喜びが溢れ広がることを祈ろうではありませんか。