―復活― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちはイエスのみことばを思い出した。そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」

ルカによる福音書24章1-12節

 

人の命が失われることほど悲しいことはないですよね。昨日も少しこの話題に触れましたが、そういう意味で失われていい命などありません。私も母を今から20年前の夏に亡くした(天の神様のもとに凱旋)のですが、そのショックは本当に大きいものがありました。見かけは大丈夫なふりをしていましたが。もし生きていたら、もしかしたら生き返っているかもしれない、などと思い、聖書の話を思い出しながら神様に祈ったものです。この世での制を再び取り戻す、という事はなかったのですが、その後夢で何度も母が登場したのを覚えています。そして眠りから覚め、やっぱりいない時の悲しさは表現のしようがありません。ただ、私たちには復活の希望があります。イエス様が死に打ち語られ、復活されたことによって、私たちもやがて死を迎えても復活させていただける恵の時が来るのです。死を死で終わらせず、私たちの命を新しくしてくださったイエス様がくださったこの命、最後まで信頼し、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が十字架にかかられ、死んで葬られ、3日目の朝の出来事です。安息日の間、イエス様のおからだに香料などを塗ることができなかったので、安息日の開けたこの朝、女性たちは香料をもってイエス様のところに向かいます。ところが、その墓は開かれていたのです。そしてイエス様のおからだもなかったのでした。

 

当時の墓というのは石灰岩の洞窟から切り出した石墓になっていたのですが、その入り口を大きな岩でふさぐ、という形になっていました。大人の男数人で転がすような大きさです。

 

 

言うまでもありませんが中から開けることなど不可能です。性たちはその墓をどうやって開けるか思案していたことが他の福音書でも書かれているのですが、しかし彼女たちの見たものはからの墓でした。彼女たちは封じられていた石が転がされているのを見て、墓の中に入ります。これならイエス様のおからだに香料を濡れると思ったのか。しかし、墓の中に入って見ると、そこにはイエス様のおからだはなかったのです。

 

途方に暮れている彼女たちに、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人(御使い)が彼女たちに「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」と声を掛けます。他の福音書などを見ますと女性たちは、イエス様のからだが盗まれたのではないか、と心配していました。また巷ではローマ兵たちの口合わせによって、弟子たちが盗み出した、と噂になっている。いったい何が真実なのか。

 

その彼女たちの不安に御使いは不信仰な!と叱責するのではなく、彼女たちに、イエス様はよみがえられたことを告げるのです。ここにはいない。よみがえられても墓の中に閉じこもっているイエス様ではなく、もう出発されているんだ、と。他の福音書の記事によりますと、イエス様は復活後、天に昇られる日まで多くの人と出会いました。諸説ありますが500人以上の人たちと会っています。↑の続きの箇所では、名前さえ載っていない2人の男性と出会い、彼らを救いに導きます。また弟子たちの中でも、イエス様を得に裏切ったペテロに出会い、彼に悔い改め、平安と解放、そしてその先の道へと導かれます。

 

イエス様の働きは死んではいない。死に勝利されたイエス様は復活の恵みへと、古い命ではなく永遠のいのち、神様によって新しくされる命へと導くために働き始めた、そして今も主は働かれておられるのです。

 

御使いが「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と仰っているのは復活されたイエス様をただ墓の中で捜してもいない、と言いたいだけではなく、イエス様は死んでよみがえられて、生きておられる。ただ生きているだけではなく、生きてその働きをなし続けている、それはもう始まったのです。十字架で終わったのではない、死で終わったのではない、ここから始まったんだ、と。彼女たちは急いで弟子たちのところに行って言われたことを告げます。しかし、弟子たちはたわごとと信じませんでした。まあペテロは信じたようですが。

 

私たちはこのイエス様の十字架と死、たわごとと考え、自分とは無関係とみていませんか。しかしイエス様は私たちを無関係とは考えず、むしろ私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪の罪を赦し、神様の子として迎え入れられるのです。復活されたイエス様を墓に戻してはいけない、十字架に架けっぱなしにしてはいけない。死んだので終わりではなく、よみがえられたイエス様と、このイエス様にあって与えられたこの新しい命を、喜びをもって歩もう。今日も生きておられる、今日も生きて働かれるイエス様と共に。