―死― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだが、」

ルカによる福音書23章50-56節

 

死、これはどうやっても人の手ではあらがえるものではありません。そして、これに人は悩み、苦しみ、悲しみます。じゃあ一体どうすればいいのでしょう。神様が私たちを死から救ってくださる。神様はあなたを死ではなく命に引き上げるために御子イエス様を十字架に架けられ死なせ、私たちが降るべき陰府にまでゆかれ私たちを引き上げに来てくださったのです。あなたのいかんともしがたい死、これを新しくされる神様が今日あなたに何をなされるのか、私たちは大いに期待しよう。この神様から離れず歩みたいものです。

 

さて、↑は神の御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかられた後の出来事。十字架と復活の間にあった出来事になります。イエス様は↑の前の箇所でも多くの目撃者のもと、確かに死なれました。十字架に架けたローマ兵自ら、そのやりで突き刺し確認をされています。神の御子イエス様が死んだ、それは多くの人に衝撃が走ったことでしょう。イエス様の12弟子でさえ、イエス様の復活を信じている人がどれだけいたか、という話ですし。

 

そんな中、アリマタヤのヨセフという一人の議員(立場ある者)がイエス様の遺体の引き渡しに名乗りを上げます。この時、イエス様の遺体を自分の墓用に用意しているまだ新しい墓におさめようとしたのです。夜には、同じようにかつてイエス様に出会った宗教家の一人ニコデモも一緒にイエス様のお墓に来ます。なぜ彼らはイエス様の遺体を引き取ったのでしょう。彼らはイエス様が完全に死んだことを知っていますし、彼ら自身で墓におさめているのですから、それは自分たちでも知ったことでしょう。神の御子イエス様、救い主として信じていた、そのイエス様が死なれた、それならもう私たちの知ったことではない、とは彼らは考えなかったのです。

 

何の価値もない者のためにどうして自分の新しい墓を明け渡せるでしょう。どうして大金をはたいてまで彼の防腐のための準備をする必要があるでしょう、防臭などする必要があるでしょう。しかし彼らはイエス様こそ真の王なんだ、と考え王としてふさわしい方法で葬ったのです。これは本来自分たちが葬られるべき墓、それをイエス様が身代わりに引き受けられたんだ、と信じ。一緒にイエス様を墓におさめにいった女性たちもどこまでイエス様の復活を信じていたかはわかりません。しかし、イエス様は何もできなかったものとしてではなく、確かに神の御子であられた、王であられた、と。

 

彼らの手で、じゃあイエス様を復活させる?それは無理な話です。それができるのは神様だけ。私たちの罪を身代わりに背負われ十字架で罰せられ、死なれたわけですから、それをよみがえらせる許可をすることができるのは神様だけなのです。また死刑を受けたものが自分の手で脱出するなんてことはあり得ない話なのです。しかし、彼らは委ねた、神様が何かをなされる準備をしたのです。他の死刑囚と一緒に葬られたところではない、新しい命を受けるにふさわしい新しい場所を備え。

 

神様は墓に永遠に眠り、腐りしに行くはずの私たちに新しい息吹を、イエス様の十字架の死と復活によって私たちに吹き込まれるのです。私たちはイエス様を諦め、どこかに葬り去っていませんか?しかし私たちはこのイエス様を通して神様が成される、このイエス様のいのちを持ってまで私たちを救わんとされた神様に私たちは自身を空にし、どれだけ信じ待ち望んでいるでしょうか。あなたを古いものから新しくしてくださる神様に信頼しよう。古い私たちは死に、葬られ、私たちは新しくされるのです。神様が引き出される、神様が新しくしてくださるこのいのち、神様のお働き、御心に大いに期待し、いつも神様を求め、待ち望むものであろう。イエス様が復活されその墓が開かれた日を迎えたように、あなたの扉を開かれる神様が今日、あなたの手を取り導かれるから。