―あなたが今向き合っている相手は― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、こう言った。『あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。』しかしイエスは言われた。『わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。』彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです』と言われた。すると彼らは『これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから』と言った。」

ルカによる福音書22章63-71節

 

人は時に相手によって態度を変えることがあります。自分が可能な限り優位に立ちたいのでしょうかね。かくいう私も人の子とは言えない、不完全なものなのですが。では神様に対する態度はいかがでしょう。時と場合に応じて使い分けたり、下手をすれば自分の都合のいい操り人形、自分の願いを叶えさせるための存在にしか見ていない、なんてことはありませんか?ただ神様は、私たちが罪人であるにもかかわらず、好き勝手に離れ、生きているのにもかかわらず、それでも愛することをやめずに、いのちまでかけられました。あなたのためなら、と。このイエス様があなたに与えてくださった永遠のいのち、このイエス様と今日、どう生きますか?

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれ、いよいよ十字架にかかられる直前のできごとになります。イエス様はとらえられているわけですが、今監視人たちがイエス様をからかい、むちでたたき、目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたり(神の御子ならそれくらいわかるだろう、という意図もあったかもしれない)、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせるのでした。

 

彼らは一体何をしているのでしょう。何が楽しいのでしょう。今目の前にしているのは、ここ数年イスラエルをにぎわし、また多くの奇跡をおこなった方ですよ、人気で何万人もの群衆がついて来たり、あまりの人の多さに天井から病人をおろしたり、木に登ってまで見なければいけないほどの方です。話を聞く、癒してほしい、とかそういう事なら分かりますが、このイエス様がエルサレムに入場して1週間ほど、一気に態度が変わったのです。なぜ彼らは神様の恵みから離れてしまったのか。

 

ここにいた人たちは諸説ありますが、金で宗教家たち(イエス様を殺害しようと試みていた者たち)に雇われた人、脅されていた人たち、イエス様と親しい人は追い出されていた、など様々。ただ事情は何にしても脅されていたにしても何にしても、彼らがイエス様をたたいて「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」とたたく、罵る、悪口を言うなどの存在として見ているのか、救い主としてこの方を求めているのか、それがある意味では問われるのです。

 

彼らはイエス様をふざけてそんなぞんざいに扱っていましたが、むしろイエス様の瞳は、目は、「わたしを十字架に架けるのは誰か。わたしを迫害する者は誰か。あなたはわたしをだれだと思うか」と問われるのです。あのイエス様の十字架と復活、昇天の後にクリスチャンを迫害していたパウロに復活のイエス様が現れて、問うたように。しかしこの時、イエス様は彼を裁くのではなく悔い改め、救いに招かれたのです。今、イエス様は何も知らずにイエス様を罵る彼らが、裁こうとして神様の恵みから、命、救いから落ちていこうとする彼らをイエス様はそれでも、憐れまれたのではないでしょうか。十字架上でイエス様が、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちで何をしてるのか分からないのです」と、十字架に架けた今目の前にいる群衆、自分を罵りツバキを吐き掛け、殴りつけた者たちのためにさえ祈ったのです。赦しを懇願されたのです。

 

さらに「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、こう言った。『あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。』しかしイエスは言われた。『わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。』彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです』と言われた。すると彼らは『これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから』と言った」という出来事がありました。先程とり上げた宗教家たちによる裁判ですね。

 

イエス様こそキリストだ、という言質を取りたかったのです。そうすればいやおうなしに群衆が何と言おうと、神を冒涜した、としてこの出来事の最後にあるように処刑に踏み切る床に至れるわけですから。ただ、イエス様はこの罠を知っていました。知っていて黙っていればなんとでもやり過ごせるところを、イエス様はそれを否定されなかったのです。わたしこそが、神の御子である、とここで宣言されたのです。神様がずっと、イザヤ書の分かち合いでも見てきましたが預言されていた救い主イエス様による贖い。アダムとエヴァが初めて罪を犯したときからずっとその御手を伸ばされ、何とか救おうと神様は語られ、働かれてきた、それでも神様に立ち返らず、命を失っていく彼らを、自業自得というのではなく、それでも彼らを救うためにこの十字架の道をやめるわけにはいかない、と決意を現されたのです。

 

神様はイザヤを通して「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られていたのを覚えているでしょうか。

 

見向きもせずに神様は民を、私たちを見捨てるのではなく、イエス様にこの痛みも罪も全部背負わせ、あなたの身代わりに罰し、死なせる決断をされたのです。あなたが苦しめられるのではなく、刺し通され死ぬのではなく、砕かれるのでもなく、あなたに平安を、癒しを与えるため、このイエス様の十字架上での身代わりの死と復活によってあなたが生きるため、ここまでされて取り戻された、新しく与えられる永遠のいのちを与えるため、イエス様はこの十字架の道を進まれるのです。

 

私たちが今向き合っている、あなたを導いて下さり、また執り成し守ってくださっているのは、生かしてくださっているのは他でもありません、このイエス様です。私たちはこのイエス様を今日、誰と告白しますか?このイエス様が新しくしてくださる命を、私たちはもうツバキを吐き掛けるのでも悪口を言うのでもなくただ信頼し、歩みたいものです。これだけの愛をもってあなたを救うことを選ばれたイエス様が今日あなたと共にいるのだから。