―今こそ必要な愛― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか』と言われた。イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『主よ。剣で撃ちましょうか』と言った。そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは、『やめなさい。それまで』と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。』」

ルカによる福音書22章47-53節

 

世の中今、本当に色々あります。自分は安泰、と思っても、世界で見るとどうでしょう。しかし一番厳しい時というのは、私たちを造られ、私たちのためにいのちさえ惜しまなかったイエス様が不在の状態です。イエス様を私たちの蚊帳の外に追い出してはいないでしょうか。私たちを本当に生かすのはこのイエス様です。失われた魂、神様があなたを造られた時に持っておられた最高のイメージが失われている状態をあなたはどう感じますか?それを回復し、あるべき姿にイエス様が日々近づけてくださる、造り変えてくださる、導いて下さるのです。私たちは今こそこのイエス様に立ち返ろう。この愛を受け、この愛に生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が救い主としてお生まれになったにもかかわらず、多くの愛注ぎ、どんな時にもその愛を惜しまなかったイエス様を殺そうとしていた勢力が今イエス様に近づいていて来たところから始まります。イエス様はこの少し前にイエス様ご自身が開かれた最後の晩餐の時、ここで裏切りをはかるイスカリオテのユダに、最後の最後まで愛を注がれていました。そして↑の直前ではイエス様は弟子たちのためにも祈っていたのです。しかし、今裏切りの時が来ました。

 

イエス様が弟子たちに、「起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」と話されていた頃、群衆がイスカリオテのユダを先頭にしてやって来ました。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいてくるのでした。ここでユダはイエス様に口づけをしようとします(他の福音書を見ますと、イエス様の口づけがこの暗闇の中でイエス様がどの人なのかを見極めるためのしるしだったそう)。そしてイエス様に「ラボニ=先生」といって口づけするのです。

 

ここで面白いのが、この口づけ、という言葉は「友愛、兄弟愛」を意味するフィレオ―という言葉からきていることばなのだそうです。この言葉は、聖書の中で「聖なる口づけ」という言葉でも訳されるのですが、パウロや12弟子の一人だったペテロは、この聖なる口づけをもって互いに互いにあいさつを交わすことを勧めています。裏切るためではなく、互いに励まし合う、そういう意味で勧められています。パウロという人も一人一人名前をとり上げながら、よろしく、とあいさつの言葉を手紙に書き記しますが、たとえ遠く離れていても、イエス様にあって私たちは一つとされる、友のために祈り、また励まし合う、支え合うことができるのです。

 

しかし、イエス様は本来罪人である私たちを友として受け入れるところを、ユダは裏切りという形でこの愛から離れてしまったのです。イエス様は「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」ユダに語りかけられたのは、もう裏切っているユダに、それでもまだ立ち返ることを勧めているのではないでしょうか。この後、ユダはイエス様を、罪のないイエス様を売り渡し十字架にかけたことを後悔し、自死することになります。一方でここで剣をもって大祭司のしもべの耳を剣で切り落としたペテロもイエス様を呪いを架けながら否定するという事がこの先の箇所で出てきます。ペテロは後に赦されます。彼は悔い改めたからです。ユダは、もし悔い改めていたら、ここでイエス様のことばで我に返って赦しを乞うていたら、と思うところです。イエス様が十字架にかかられるのはもともと決まっていたことですから、それでも十字架への足を止められることはなかったのです。

 

イエス様は、最後の晩餐の席で「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と語られていました(この時にはすでにユダは外に出てしまっていましたが)。

 

イエス様はこの時裏切るとわかっている弟子たちをも、「友」と呼ぶと仰られました。いや、友としてあなたを迎えたいのです。私たちは誰しもが完ぺきではありません。しかし、完璧な愛、無条件の愛をもってあなたのために、友のためにいのちを捨てるほどに愛されたイエス様がいるからこそ、私たちは生きたものとなるのです。友と呼ばれるに値しない私たちを、イエス様は友として迎えてくださる。ユダは裏切るためにこれを行いましたが、イエス様は友として招こうとされたのです。その友のためにいのちを捨て、あなたを友として迎え入れてくださる、この愛をイエス様は今、あらゆる武器をもって差し迫っている群衆に臆することなく、現そうと逃げるわけでもなく十字架への歩みを進めるのです。ユダを振り払うのでもなく、こうして語られ、自らの存在をここに示され。わたしはここにいる、と。ここにいのちがあるんだ、救いがあるんだ、と。

 

ユダは裏切りの口づけをし、群衆たちは剣や棒をもってイエス様を捕えようとしに来ました。しかしそのような彼らから隠れるのではなく、イエス様はここにわたしがいる、と声を出され、捕まることを恐れずに、むしろ招かれたのです。イエス様を襲ってきたその大祭司のしもべの一人の切り落とされた耳さえイエス様は癒されたのです。暗闇の中剣などをもって戦おうとする私たちを癒すため、救いに招くために、ここに宣言されているのです。

 

今は闇の時、とイエス様は仰りますが、その闇に勝利するのは私たちのことばの武器、能力、剣や棒ではありません。イエス様のみことばの剣、イエス様の愛が、勝利へと導かれる、この闇を打ち払うのです。人の不完全な愛ではなく私たちのためにさえ命を惜しまず、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられた、救われた、これ以上大きな愛はない、この愛に込められた、イエス様の完全な愛こそがあなたを救い出し、いのちのうちへと導かれるのです。

 

もちろん友愛、互いに愛し合うことは否定されていません。イエス様もあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と勧めていますから。だからむしろ、私たちはイエス様の愛によって互いに励まし合い、祈り合い、支え合い、聖なる口づけ、神様の愛をもって互いに仕え合う、御言葉をもって励まし合おう。あなたの持っている武器を置いて、イエス様の愛を取らせていただこう。そこにイエス様の愛が完全に現されるから。先頭に立っていただくのはイエス様。イエス様があなたの先頭に立ち、あなたの恐れを過ぎらされ、復活の命をもってあなたを暗闇からイエス様にある永遠のいのちの道へ、神様の恵みのうちへと招かれるから。