―今こそ恵みの年― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」

イザヤ書61章1-3節

 

私がまだ幼かったころ、夜寝ている間、自分はどうやって呼吸しているんだろう?死なないだろうか?と考えたことがあります。その時、一言神様に「私が寝ている間もお守りください、明日も元気に朝を迎えさせてください」と祈りました。神様は私たちが意識していない時から、いや正確には私たちが母の胎内にいる時からずっと私たちを形作り、ご愛を注がれ、導かれているんですよね。いつかね、という関係ではなく昔も今もこれからも、神様はあなたに愛を注ぎたいのです。私たちもいつも神様を求め歩もう、御子イエス様のいのちにあって結ばれたこの最高の時をいつも喜ぼう。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様は神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆い、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れさせてくださること、そして必ずあなたを晴れやかで心震え、喜ぶ日を迎えさせてくださる、と。その日、あなたの上に神様の義の太陽が輝き、あなたを回復させることを訴えてこられました。

 

なお神様は続けて、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう」と語られます。

 

それにしてもすごい回復の約束が告げられていますね。ちなみに、ここで「わたしの上」とありますが、これは私たちを指すわけではありません。いや、厳密にはこの「わたし」の恵みに私たちが与らせていただけるのですが、これはイエス様を現しています。

 

イエス様が今から約2000年前に人となってお生まれになられ、その公生涯を歩み始められたころ、イエス様がご自分の育ったナザレの会堂でその管理者から手渡されたのがイザヤ書であり、イエス様は「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」と読み上げ、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と語られました。

 

この時、多くの人はイエス様をほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚きました。しかし「この人は、ヨセフの子ではないか」と言う人もいました。そこでイエス様は「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう」と仰り、また「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません…」と語られました。それでもイエス様はこの時、病人たちを癒されました。

 

しかし、イエス様はこの後この反対者たちによって丘のがけから突き落とされそうになるのです。イエス様はそんなところと分かっていて、ご自分が郷里であまり受け入れられないことを分かっていて、それでもここに恵みを告げ知らせに来られたのです。たった数人?いえ、この一人のために、イエス様は郷里を訪れられたのです。見捨てるのではなく。

 

この預言の肝心なところは、ただ癒されることだけにとどまりません。まず、「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ」と語られています。神様の霊が、イエス様を突き動かされているのです。この郷里にくる少し前は、神の御子であられるのに40日40夜の断食の後、サタンの誘惑に会うというところに「導かれ」これを受けられたという事がありました。それはイエス様が私たちと同じようにサタンとの戦いを受けられ、これに勝利することを示されたのです。イエス様ご自身がその重荷を負うためにサタンの誘惑という戦いに置かれたのでした。

 

神様が、イエス様の上に霊を置かれた、という事は、神様のご意思がここにあるのです。神様の御思いは、イエス様をなぜ人として生まれさせ、また今遣わされたのか、それは「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすため」なのです。イエス様はその公生涯の間、多くの奇跡をおこなうも、同時に何度も殺されそうになったり、裏切られたりしました。それでも、この目的のためなら、とイエス様はその足を止めませんでした。

 

神様のお心は私たちの救いに向けられており、それでも何とかあなたに命を得てほしい、とその愛をイエス様を遣わされることによって現されたのです。神様は分かっておられた、彼らが迫害し、やがて裏切ることも。それでもあなたが命を得るためなら、と惜しまなかったのです。これを神様は実現させるためなら惜しむものは何もない、と私たちに全てを与えようとされているのです。あなたに恵みの年を迎えさせ、実現させるため。

 

ではイエス様が遣わされたことにおいて実現された事とは何なのか、↑と先ほどのイエス様の朗読された言葉と合わせてみますと、まず第1に、「貧しい者に良い知らせ(福音)を伝え、心の傷ついた者をいやすため」です。まさに、福音、これを宣べ伝えたかった、ここに全てがある、ここに全てのよきものがある、と。

 

え、でも貧しい人って貧乏な人のこと?いえそうではありません。イエス様はある時、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と仰られました。それは霊において貧しい、ということで神様を飢え渇き求める人の内に神様は御国を広げられることを語られました。イエス様が読まれた方のことばを見ますと、やはりそれに近い訳がされてまして、普通の貧乏のことではなく、「打ち砕かれ、差し迫った窮乏にある人」を意味する言葉が使われています。私たちの心も、魂も、神様が私たちにくださったものです。これを本当の意味で回復させることができるのは神様しかいません。あなたは神様にどれだけ飢え渇いていますか?私たちがどれだけ神様の恵みを失っているか、差し迫った窮乏にあることに気づいているでしょうか。神様はこれをもう一度回復させたいのです。

 

パウロという人は「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」と手紙に書き、そして多くの人たちにこれを届けました。彼自身、もともとは宗教家として出世コース間違いなし、といえるほどの立場にありました。そしてキリスト教徒を迫害することによって、いよいよそれを確立させていく事もできたでしょう。

 

しかし、復活のイエス様が彼と出会ってくださり、彼を悔い改めに導きました。彼はもちろんそれを拒否しようと思えばできたかもしれない、しかし彼はこのイエス様を受け入れた、それによってどれだけ今度は逆に迫害されるかもわかってなお、この神様がくださる富はこの世のものでははかり知れないものがあるんだ、と。こんなイエス様を迫害し、教会の若手のホープの殺害にまでかかわった彼を神様は憐れんでくださった、この神様の愛に彼は心砕かれ、受け入れたのです。彼は救い主を求めてはいたのです、その彼の内に神様はまさに福音を届けたのです。心の貧しい彼に。神様をどこかで求め続けている彼に。神様の楽しみ、御国は確かにそうして広がっていった、世的には失ったように見えても神様は惜しまずすべてを与えてくださったのです。

 

貧しさについていいイメージがわかないかもしれない、しかし神様の御前に貧しくなる、心遜る時、神様は高くしてくださる、神様の恵みで満ち溢れさせてくださる、これをイエス様はあなたに届けようと来られたという事を忘れてはいけません。お金をたくさん払えば与えるよとは仰らず、むしろまずイエス様は与えに来られたのです。あなたはこれを受け取っているでしょうか。

 

さらに↑で神様はその目的について、「捕らわれ人には解放(赦免)を、囚人には釈放を告げ(盲人には目が開かれること)、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」と語られています。ちなみに、有罪の人が釈放されるとかそういうことではなく、罪の奴隷として囚われている人を釈放し、目の見えない人の霊的な目を開く(ちなみに当時目の見えない人は罪が原因という考え方があった)ことで、イエス様の届けた福音によって回復、癒されることを告げられたのです

 

それらすべてはあのイエス様の十字架に現されました。十字架にイエス様がかかる直前、唯一有罪判決を受けていながら罷免、解放された人がいました。バラバという死刑囚です。当時の総督ピラトはイエス様を裁判にかける中で、イエス様に罪が見いだせない、そこでイエス様とピラトのどちらかに恩赦を与えよう、と民衆に言うと、民衆はバラバを選びました。しかし神様はこの時、何を!とバラバをそのまま有罪にするのではなく、そのバラバの罪をもイエス様は背負われたのです。まさに罷免、解放されたのです。物理的に。

 

ただそれだけでは本当の意味では罪を赦され、神様の赦しをいただくことはできない、イエス様はそのために十字架にかかられた、私たちが神様の御前から離れ、好き勝手に生き、有罪判決を受ける身でありながら、イエス様は私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられたのです。↑で語られている神様の復讐をその身に負われたのです。神様の恵みを受けていながら好き勝手に生きる、これが見えていない、霊的に盲目な私たちの目を開くため、十字架で私たちの身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子とされる、神様の御前に有罪、とされ永遠の裁きに向かう、死に向かう私たちを引き上げられ、無罪、釈放され、神様の子としてしかも受け入れてくださるのです。

 

ここから↑で語られている通り恵みの年が始まります。いつか、の話ではなくあなたがイエス様を受け入れるその瞬間から始まるのです。あなたの悲しみを喜びの歌声に変えてくださる、神様のくださる喜びで、いのちで、恵みであなたを覆ってくださるのです。↑で樫の木、と語られていますが、一年中、常に緑の葉をつけ、生命力に溢れています。そんな樫の木のように神様はあなたを今日も明日も、世の終わりまであふれさせてくださる、神様があなたの内に成してくださるのです。今こそ私たちは心遜り、神様の新しく迎えさせてくださった栄光の年、恵みの年を喜び歩ませていただこうではありませんか。あなたにイエス様にあって命を吹き込みこれに溢れさせてくださるこの神様の恵みを待ち望もうではありませんか。