―本物の太陽が昇る時― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来、あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏し、あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。あなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びの町に変える。あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅は、もう聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぼう。太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現わす、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」

イザヤ書60章10-22節

 

太陽ってすごいですよね。天地創造の時からずっと今に至るまでその役割をやめることをせず、輝き続けている。夜の間もちゃんと太陽は見えなくても存在し、雲があってもその上では太陽は失うことなく輝いている。でも、普通に考えてそうあり続けるのはあり得るのか?いつも燃え続け、光を発し続ける。そんなことができるものを他に知りません。そうなんです。神様が輝かせてくださっている、これを造られた神様が素晴らしい、そしてその神様が今日もその太陽を昇らせてくださっているのです。神様は悪人にも義の太陽を昇らせ、ご自身の恵みを注ごうとされる。私たちは必ず回復の日、神様の栄光、光が輝く日が来ることを、もう一度回復する、神様のいのちに満ち溢れる日が来ることを信じ待ち望もうではありませんか。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様は「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と、神様の驚くべき救い、光が私たちの上に覆われる時、そこからさらに神様の恵みが溢れ流れるから、そして「彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ」神様は訴えられました。必ずあなたを晴れやかで心震え、喜ぶ日を迎えさせてくださる、と。

 

なお神様は続けて「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ」と語られます。ただ実際は歴史を見ますと簡単にはそれは進まず、ご存じ諸外国の王たちは、城壁を打ち壊すものたちでした。神様を認めず、神様の恵みに入るものではなく、打ち壊すものでした。こんなものは自分の役には立たぬ、と。かのアッシリヤ帝国や、バビロン帝国にしてもそうでした。またローマ帝国もです。彼らは紀元1世紀に完全に破壊しつくしたのです。彼らはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。

 

しかし、神様は打ち砕かれたものを回復させる、建て直される神様であり、恵みとあわれみをもって、神様ご自身の内に招かれる神様なのです。そもそも、このエルサレム神殿は、神様がソロモンに全てを備え、彼に知恵を注がれ建てられたものであり、神様ご自身がそこにお名前を置かれ共におられるからこそ、「神」殿だったのです。じゃなければただの箱モノです。神様がいるから、そこは恵みに満ち溢れたところとなる、神様のご臨在くださる豊かな場所となるのです。

 

事実、バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は、なんとペルシャの王の助けによって神殿の再建を果たさせていただき、そこは神様の恵みに満ち溢れるところとなりました。イエス様が人となって生まれてこられる場所、そこで神様は救いの恵みをもたらして下さりました。

 

しかし、今述べましたようにローマ帝国によって徹底的に破壊され、民は離散、しかし今から70年ちょっと前に彼らはイスラエルは再び国となり、神様は民を呼び集め、今多くの人たちが帰っています。同時に戦いもありますが、そこには神様がおられる、その約束は変わらないのです。神殿という目に見える形のものはまだであっても神様ご自身が神殿となられたのです。そこに神様が今彼らを、私たちを招かれているのです。そしてやがて完全な御国という名の神殿が完成する、そこに私たちは招かれているのです。

 

神殿の建て直し、回復についてここで語られていますが、そういう意味では神様はただ物理的な神殿を諸外国の民によって建て直すよ、といっているわけではなく、むしろ神様ご自身の住まわれるところ、その神殿が回復されるのです。

 

かつてソロモン王がこのエルサレム神殿を建てた際、神様は彼の祈りに「わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、【あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない】と言って契約を結んだとおり、あなたの王座を確立しよう」と素晴らしい約束をしてくださりました。

 

ソロモン王はダビデの意思を引き継ぎ、またダビデの信頼から様々な支援を受けてついに神殿を完成させたわけですが、大事なのは「神様の名」がそこにあるかどうかなのです。神様の名がそこにあるから、癒しがあり天からの恵みがある。「罪を赦し」と神様は語られていますが、罪が赦されるということは、赦すよ、はい終わり、という話ではなく、そこから神様との和解、関係の回復、神様の子供としてのいのちある関係が始まるからです。神様は惜しみない愛を注ぎ、あなたをあるべき姿に、あなたの内に聖霊様が住まわれ、あなたが聖霊様の住まう宮とされる、その中に神様の溢れんばかりの祝福が起こるのです。あなたを奪い、苦しめる者が王となるのではない、あなたのためにいのちを惜しまない御子イエス様があなたの内に住まい、義の王となられ、あなたを導かれるのです。

 

↑で神様は「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである」と仰られていますね。神様はその門を開いてくださっているのです。イエス様の12弟子の一人ヨハネも、やがてくる御国についてイエス様から啓示を受け、「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る」と書き残しました。

 

そう、これはやがて来る完全な御国を、神殿という名の御国を現してはいる、そこに神様の栄光を携えた、その喜びで溢れた人たちが帰ってくる、神様のもとに帰ってくる日が来るんだ、というのです。「その栄光を携えて」ということは、私たちは神様の宝、財宝、栄光が与えられている、注がれているのです。神様ご自身がその光をあなたに照らし、導いて下さるのです。神様の閉じられていないその門から溢れんばかりの恵みが、暗闇を照らす光があなたの内に輝くのです。ソロモンに神様が答えたように、その天の窓は開かれ、惜しむことのない恵みの雨が降り注ぐ、あなたを癒し、回復される、神様が新しくしてくださったその恵みに私たちは生きる事が赦されているのです。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、私たちはこのイエス様のいのちにあって与えられる栄光に満ちたいのちの内を歩ませていただけるのです。

 

↑の最後で、神様は「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである…」と約束されました。神様ご自身があなたの太陽として御子イエス様を輝かせてくださる。太陽がたとえ沈み、月がかげることがあっても、このイエス様のくださる命、光は失われることはありません。嘆き悲しみは喜びへと変えられるのです。

 

神様はやがて完成する神殿を見せながら、その神殿、回復された、完全な命ある関係にあなたを招くため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。あなたの罪が赦され、神様の癒し、和解によって、本当の命を得るため、永遠のいのちを受け、神様の陰ることのない栄光の光が満ち満ちるため、罪による死、神様との断絶による暗闇に光を照らすために。王、神様の子として神様の栄光の内に招かれるため。イエス様はそれゆえ死んで終わりではだめだったのです。3日目によみがえらされたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、まさにこの約束が成就するのです。

 

やがて来る新しい天と地について、イエス様は「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と約束されましたが、今私たちはこの恵みの前味をいただかせていただいている、閉じることのない門からその恵みは今日も注がれているのです。これらを過ぎ去らせ新しいものに、いのちの光を今日もあなたに照らしイエス様は導かれる、私たちはイエス様の十字架からこの命の神殿、神様との命ある関係へと今日も招かれているのです。あなたはこの命がけの神様の愛にどう応答するでしょうか。過ぎ去った痛みではなく、イエス様のいのちにあって与えられた、与えられる喜びがあなたの内に満ち溢れることをお祈りいたします。