―血の汗を流し祈られたイエス様― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい』と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。『なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。』」

ルカによる福音書22章39-46節

 

「あなたに私の何がわかる!」という言葉を耳にした、言われたことがある人はまあまあいるでしょう。私もこれを言われた時にはショックだったことを覚えていますが。ただ、私たちはこれを神様に向けたことはないでしょうか。神様に私の何がわかるんだ?と。でもイエス様はすべての痛みを負われ、苦しみを負われた。イエス様の背負われなかった私たちの重荷などない、経験されなかったことなどないほどに痛みを負われたのです。私たちはこのイエス様の傷によって癒されるのです。私たちは今日、神様がどれだけの愛をイエス様を通して注がれたのか、改めて覚え、このイエス様から離れることなく歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれ、人々の、私たちの多くの重荷を背負い、また癒しつつ歩まれ、ついに十字架にかかられる直前まで来ました。最後の晩餐を終えたイエス様は今、弟子たちを連れてゲツセマネの園というところで祈られます。イエス様は逮捕されることをご自身もう知っておられます。そしてこの十字架にかけられなければならないことを。いや、そのために来られたのですから、ある意味では覚悟はできていたのか。ただ、イエス様は祈るのです。

 

別に神の御子なのだから痛みもないしどうせ生き返るのなら祈る必要はないのでは?と思われる方もいるかもしれません。しかしイエス様は痛みを知らない、そのようない体ではなく、むしろ罪を犯さない点を除いては完全に人となって生まれてこられたわけですから、おなかもすけば、傷つけられれば血も流します。人の苦しみを、痛みを負うために完全に人となってお生まれになられたのです。イエス様はこの後寝食を共にしてきた弟子たちに裏切られ、捨てられる、そのことも知っています。この後、鞭に貝殻やら釘が取り付けられた鞭で打たれることも知っている、何より当時残虐極まりない十字架刑が待っていることも知っている、何より、神様は助けてくれず、かえってその関係が閉ざされることも知っているのです。

 

どれだけイエス様はつらい思いをされたでしょう。イエス様は弟子たちを置いて逃げようと思えば逃げられたでしょう。一人で祈ってくると言って離れて(実際にイエス様は一人で早朝祈られていたこともしばしばありますしおかしな話ではない)逃げていく事もできたはず、しかしイエス様は祈られたのです。でも祈っても変わらないのでは?と思いますか?いえ、イエス様はそれでも祈られたのです。↑で「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と弟子たちに言いましたが、イエス様は弟子たちのためにも祈り、また自身が神様の御心を最後まで遂行することができるように祈られ、最後は後の教会のため、私たちのためにもここでは触れてはいませんが、一緒にこの祈りところに来ていたヨハネは聴き、福音書に記録しました。

 

話を進めて、イエス様は↑で「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。できれば、この十字架という苦難の杯を取り除いてほしい、でも神様の御心だけをなして下さい、と祈られました。イエス様は十字架にかからなければいけないことは分かっている、でも神様から引き離され、死ななければいけないというあり得ない体験はつらいんだ、避けられるなら…でもそれ以上にそれを私たちが負うことを望まず、むしろ私たちが救われる、永遠のいのちに与らせていただけることを切に祈ったのです。途中で十字架をやめたいという誘惑から守られるように。

 

イエス様のつらいお気持ちはいかばかりか。その時の様子について医者のルカは「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と伝えていますが、どうも医者に話を聞いたところこれは血汗症というものらしく、これがどういう時に起こるのかといいますと、極度の精神的ストレスに関連して起こるそうで、あまりにも強い心配や不安があると感染にある毛細血管を壊す化学物質が発生して血が汗腺に混ざり起こるものだそうです。そして、そうすると皮膚が大変脆弱になるそうで、これがのちのローマ兵によるむち打ちで相当のダメージを負うこととなるのですが、それは別として、神の御子イエス様にとっても、これは相当ストレスの状態だったのです。でも、血の汗を流すほどの事ってそうめったに私たちでもないでしょう。しかし、イエス様はそれほどのつらい思いを今されていた。逃げようと思えば…しかしイエス様は御心のままに、と祈られるのです。

 

それはあなたが永遠のいのちを持つため。あなたが永遠に神様から引き離され断絶されるのではなく永遠に神様の恵みの中生きることができるように。血の汗を流しながらもイエス様は決断し、今立ち上がり、十字架に向かわれるのです。↑の少し前の箇所で、イエス様はペテロの裏切りを知りながらなお「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語られていたのを覚えているでしょうか。

 

裏切ることを知ってなお、ペテロの、弟子たちの、私たちの信仰がなくならないようにイエス様は祈られたのです。裏切り者には罰を、ではなくなおイエス様は彼らの救いを祈られた、あの十字架上でさえ、神様から引き離されてなお「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と弟子たち、また私たちのために赦しを懇願されました。なぜ神の御子イエス様がそこまでされなければいけないのか。それでもイエス様は彼ら、あなたが死ではない、裁きではなく命を得、永遠のいのちを持つ、あなたが神様の子として受け入れられる、新しい命を受けることを何より願われたのです。あなたを神様の子、家族として受け入れたい、と。そのためなら、とイエス様は惜しまず今いのちを差し出されるのです。十字架上でただ死なれたのではない、あなたの身代わりとしてこの苦しみを一手に引き受けられ、イエス様は罰せられました。そして死なれたのです。寝食を共にしてきた弟子たち、本来は慣れるはずのなかった私たちが離れていって命を失うのではなく、永遠に神様の恵みに生きられるよう、今その愛を現されたのです。

 

このイエス様が今日もあなたを執り成し祈られています。涙と血の汗を流し、いのちを惜しまず与えてくださったイエス様が、あなたのために祈られています。あなたの痛みをすべて身代わりに背負われたイエス様が今日あなたのために祈られています。このイエス様の祈りにあって、このイエス様の注がれる御心、御力にあって今日私たちは生かされているのです。私たちはもうこのイエス様から離れてはいけない。信仰を失わないように祈られた、命をかけてまでつながれたイエス様から私たちは離れず、この命がけの愛によって与えられたいのち、イエス様につながり続け、その恵みに生かされ歩もうではありませんか。この世の誘惑はこのイエス様の十字架に勝ることはできません。このイエス様が今日導かれている、この恵みに感謝し歩もうではありませんか。