―内臓がひっくり返るほどに悲しい― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』―主の御告げ―『これは、彼らと結ぶわたしの契約である』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない』と主は仰せられる。」

イザヤ書59章16-21節

 

腸捻転ってきいたことがありますかね。何らかの原因で腸がねじれてしまい、腸の通過障害と血行障害を起こす病気なのですが。痛いだけではなく腹部膨満感・嘔吐・便秘・激しい腹痛・吐き気・排ガスの停止・発熱・頻脈も伴うことを考えますと、想像に堪えがたいものがあります。実はイエス様は内臓がねじれるほどに痛み悲しんだ、というシーンが何度か出てきます。それは私たち自身を見て心をそれほどに、死ぬほどに痛められるのです。あなたが失われること、それほど悲しいことはない、と。その悲しみを喜びに変えるため、イエス様はあなたのためにいのちを惜しまず与えてくださったのです。あなたはこのイエス様のくださったいのちをどれだけ喜んでいるでしょう。あなたの悲しみを喜びに変えてくださったイエス様が今日もあなたを導かれていることを覚え歩みたいものです。

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていること、そのイエス様が終わりの時、必ず戻ってこられ勝利を治めてくださる、だからこの神様に従い続けることを訴え、神様の与えてくださる地、恵みに生きる事を訴えてこられました。何より神様ご自身が減り砕かれ、心砕かれ私たちを救いに来てくださった、形骸化された関係ではなく、とこしえに続く神様の恵みの関係へ、遠く離れてしまった私たちを見捨てず、御子イエス様が人となって生まれて来てくださってまであなたを救いの来られたことを。

 

しかし、民の罪が神様の恵みから引き離している問題は変わらず、その状況を神様は心痛め、さらに神様はイザヤを通に「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた」と啓示されます。

 

ここで「神様は人のいないのを見」とありますが、それはバビロン捕囚で人がいなくなったのをさも初めて見て驚いた、というわけではありません。神様はバビロン捕囚で人々が連れ去られていく事を預言していましたから。神様はそれでも何とかして彼らが悔い改めていのちを得るようにと何度も預言者を遣わし、語られ続けていましたが、彼らは最後まで立ち返ることはありませんでした。神様は、ここで仰られているるように、「ご自分の御手によって救いをもたらし、ご自分の義を」現されたいのです。そして神様の恵みに満ち溢れた人が一人でも多く起こることを願い、その御手を伸ばし続け、執り成されるのです。

 

民は、なぜこんな状況に、神様は何もしてくれない、自分に関心を持ってくれない、と疑い神様から自身の手で離れていく様子をここまで見てきましたが、そうではないのです。むしろ、驚かれる前から神様はその御手を伸ばし続けて下さっている、そのお心を注ぎ続けて下さっているのです。↑の前の箇所では「真理は広場でつまずき、正直は中に入ることもできない。そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた」と、神様が心を痛められた様子を語られていましたが、それこそ内臓がひっくり返るほどに悲しみ、心を痛まれたのです。そして、その状況に愕然とされるのです。これだけ愛を注がれ、守られてきたのに、彼らが神様の恵みを失っていくこの惨状に。

 

イエス様は人の魂が失われていく事、死ぬしかない現状にとても心を痛まれます。ある時、「イエス様がナインという町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返されたという事がありました。

 

どうもこのお母さんはずっとやもめだったようで、息子さんが生まれてほどなくご主人を失っていた、どれだけ大変な歩みをされてこられたのか。その上今、息子さんまでも失ってしまったのです。そして周りの人たちも同情するのですが、付き添うのが精一杯でした。しかし、イエス様はかわいそうに思われた(これが内臓がひっくり返るほど、という意味のことばです)ただ同情されただけではなく、彼女の痛みを我が痛みとされて、心を痛め、ただ同情するだけではなく、行動をするのです。どうせいつかは死ぬ、ではなく、今イエス様は頼まれたわけでもないのに、彼女の息子を生き返らせたのです。

 

イエス様は、死んだ状態のものを起き上がらせることができます。「死人が起き上がる」なんて普通は考えられない話です。しかし、イエス様はそこにそのお心を注ぎこまれ、いのちを与えた、なんとなく一時的に息を吹き返したのではなく、そこにことばを与え、ものを言えるように回復され、ついには彼女に完璧な状態でお返しされたのです。

 

話が逸れましたが、神様はイスラエルの民が今とり上げました彼女の息子さんのようにもう終わるしかない、誰の手も届かないようなところに神様は御手を伸ばされ引き上げられるのです。あなたをとりなすために立ち上がられ、神様の御腕・御力と義・救いへの思いをもってあなたを死から回復させ、勝利、神様の栄光へと招いてくださるのです。

 

その神様の御姿は↑の、「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた」という言葉にも表されていますよね。それは神様が戦士として神様の民のために戦われる、戦士の武装を身におおい、神様の民の救いのために戦われるというのです。ただ、これをよく見てみますと、神様の特別な、人間の持っているような鎧や兜を特別に強化した、という類いの防具があるというよりも、神様は武力で戦われるわけではないのです。神様は義の鎧と、救いの兜をかぶっておられる。神様はもちろん時に物理的な戦いのためにあなたと共に戦ってくださります。でも、それ以上の神様の大いなる計画をあなたの内に現したいのです。

 

こうして考えますと、神様は物理的なことのためだけに戦われるのではなく、霊的な、あなたの魂のため、あなたのいのちのために戦われることが見えますね。もちろん、先ほど例に挙げたイエス様の死人を生き返らせる奇跡も含めて、目の前に苦しんでいる人、悲しんでいる人をイエス様は無視されることなく、何度となく癒されました。それこそ12弟子の一人であったヨハネが言うには、まともに全部記録したら、この世のどんな書物にも治めきれないほどの多くの奇跡を、働きをされたことをヨハネは語っています。

 

なら、あなたのこれまでの生涯に対して神様は内臓がねじれるほどに心を痛められ、なされた恵みは、どれだけあった事でしょう。私たちは時に自分の問題を壊してくれる物理的な武器で神様が戦ってくれることを求め、自分の思う通りにならないと神様は結局何もしてくれないじゃないか、と思いますが、神様は私たちが思う以上のことをされる、してくださるのです。

 

以前同じイザヤ書の55章で神様が「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と語られていたのを覚えているでしょうか。私たちは神様を自分の枠にあてはめようとしますが、神様はそんな常識の枠を超えた神様の御心、心を、それこそ内臓がひっくり返るほどにあなたのために痛められた神様はなして下さるのです。そこまでされた神様が望まれる最高のご計画があなたに注がれる、あなたがうち滅ぼされることがないよう、打ち砕かれることがないよう、戦ってくださるのです。

 

イエス様は、十字架にかかられる前に剣をもって兵士たちに立ち向かう12弟子のペテロに、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。…だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」と仰られました。剣でできることは何かを傷つけるだけです。イエス様は剣ではなくともうち滅ぼす、向かってくる兵士、問題を打ち砕こうと思えばできる方なのです。それは多くの奇跡をなして下さったのと同様です。しかし、剣でたとえ目の前の兵士、十字架にかけようとしている者たち、問題を打ち砕いても、一番肝心なあなたの魂を奪おうとする罪、サタンを打ち砕かなければ意味がないのです。

 

そこで、神様はイエス様にその裁きの剣と言いますか、刑罰を、剣どころの騒ぎではないほど恐ろしい十字架にかけられたのです、私たちの重荷も含め、罪、刑罰一切を背負わせ。神様は神様から離れ、好き勝手にし、イエス様を十字架にかけたものたちを剣によってうち滅ぼすのではなく、むしろ彼らが救われいのちを得るためなら、とそれこそ内臓がひっくり返るほどに心を痛めながら、イエス様を十字架から降ろすこともせず、最後までのその愛を遂行されました。一時的な救いではなく、完全な救い、神様の御手の内に、恵みの内に、家族として取り戻すためなら、その代価をこともあろうに御子イエス様に負わせたのです。そして3日目によみがえらせてくださりました。しかしそのことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされるのです。

 

神様はこのイエス様のゆえに↑の「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない」という約束を成就されました。もうこの神様の愛はあなたから離れず、神様の霊があなたの内にとどまりあなたを導かれる、イエス様のいのちにあって注がれた神様のいのちの息吹が、今日あなたを生かし、導かれるのです。あなたを神様の家族、その恵みからもう話されることはありません。私たちもこの神様から離れず、心注がれその命を、霊を注がれたイエス様に生かされ、歩もうではありませんか。