―安息を求めて3:明日に待っているものは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。『やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。』」

イザヤ書56章9-12節

 

人は誰しもが明日に希望を願うでしょう。明日はろくなことがない方がいい、なんて考える人はいるかもしれませんが、そうめったな事ではないでしょう。では明日を保証するのは何なのか。誰が保証してくれるのか。みなさんはどうでしょう。何に希望を抱きますか?一つ言えることは、明日、確かに神様がおられるという事。その神様があなたを導かれるという事です。あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様が明日を導かれる。あなたは誰に希望を抱きますか?

 

さて、↑はイザヤが老年期のころに神様が語られたものになります。↑の前では、神様が公正と正義を今なそうとしてくださるのだから、今神様を求める事、また安息の内に招かれること、永遠の名、イエス様の御名において私たちを神様につなげてくださっていること、その安息に、花嫁として招かれていることが語られていました。

 

ここまでは究極的な救いのご計画、その最後に行き着く希望について語られてきました。↑の直前では「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ…」と神様は語られました。神様は、自分は断ち切られた、もう枯れていくだけだ、と希望を失う民に、みんながここに招かれている事、神様の御名において集められたその家は、神様の喜びで溢れること、増し加わることを語られていたのです。

 

ただ、別に神様に頼らなくても、別に自分さえ楽しければいい、と神様から離れていく民に、そうじゃないんだ、とここから語られていきます。ここからしばらく神様の厳しい警告が続きます。神様は愛の神様だから、裁きだの厳しいことを語られない、と考える方もいるかもしれませんが、なぜ神様は語られるのか。それは、その神様の語られる言葉一つ一つによって私たちが生きる事、神様が生かしてくださる、導いて下さる、私たちの足の灯、道の光となって、あなたが滅びるのではなく、あなたが生きる、永遠のいのちを得てほしい、と願われ語られるのです。ある意味で、神様にある究極の幸せに生きられるように。

 

そこで神様はまず、「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い」と語られます。これはなかなか理解が難しい言葉ですが、獣が何を食べに来るの?という事なのですが、まず獣は反キリスト、偽キリスト、サタンなどに対して使われる言葉なのですが、神様はじゃあ獣たちにこの希望を持っている人たちを襲っていい、と命じているのか、神様ひどいよ、と考えたくなることろですが、そうではないのです。

 

実は聖書の中では、獣と言いますか、猛禽類の動物に対して、神様の宴会に招く言葉がいくつか出てきます。バビロン捕囚期の預言者として立てられていたエゼキエルを通して神様は、「神である主はこう仰せられる。人の子よ。あらゆる種類の鳥と、あらゆる野の獣に言え。集まって来い。わたしがおまえたちのために切り殺した者、イスラエルの山々の上にある多くの切り殺された者に、四方から集まって来い。おまえたちはその肉を食べ、その血を飲め。勇士たちの肉を食べ、国の君主たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャンの肥えたものをそうせよ。わたしがおまえたちのために切り殺したものの脂肪を飽きるほど食べ、その血を酔うほど飲むがよい。おまえたちはわたしの食卓で、馬や、騎手や、勇士や、すべての戦士に食べ飽きる。―神である主の御告げ―」と猛烈な光景を啓示されます。

 

ゴグとマゴグという、ようするにサタンの軍勢、神様を信じる人たちを襲って来る時が来る、と語られる一方で、この預言を通して、それらの軍勢がイスラエルを攻めるのに失敗し、彼らが裁かれることが約束されています。

 

確かに彼らの時代にしても、イザヤの時代にしても、私たちの今の時代にしても、いったいどこに希望があるのか、神様は何をしているんだ、と思う時があるかもしれません。希望を見いだせないで苦しむこともあるかもしれません。

 

ただ、私たちは神様がなぜ「野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い」なんておっしゃられるのか、よく考えたいのです。↑の前までさんざん希望を語られていた神様がなぜこのようなことを仰られたのか。それはむしろ獣、サタンに狙われ、あなたの魂、神様から頂いた最高の命を食い散らかされることがないように、むしろ警告されている、神様の安息、神様の御もと、祈りの家と言われる、その神様の御名によって神様の家に招かれた、そのところに帰るように訴えているのではないでしょうか。

 

確かに私たちを食い散らかそうとする様々な問題がありますが、同時にここで神様はむしろ彼らを打ち砕く、勝利されることが約束されています。イエス様はそのような苦難の時について「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」と仰られました。

 

そう、そのような中にあって終わりの時、同時にイエス様がもう一度来られるのです。見捨てられているならわざわざ来ません。しかし最後の時、あなたを食い散らかす様々な問題、何よりサタンを完全に打ち砕きに来られる。大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗ってこられる、それを「目撃」させてくださる、必ずしてくださると約束されているのです。たとえ食い散らかそうと来ようと、神様があなたを守ってくださっている、あなたが滅びることがないようにとその御目を注がれ、その御手を伸ばされている神様がおられるのです。

 

↑でイザヤを通して語られる神様は「獣」について言及されていますが、私たちはその獣のようになってはいけません。他の人の神様への信仰を打ち砕くようなこと、どうせ神様なんて、と惑わすこともそうですが、自身が同じように神様を諦め、他の奇跡的なもの、見かけすごい人の提供する様々なものに食いついて、本来神様から受けるはずの恵みを失ってはいけません。神様はあなたに命をもたらしてくださる。良いものをいつも備えてくださっているはずです。イエス様はサタンから誘惑を受けられた際に「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』…『あなたの神である主を試みてはならない。』…引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」と聖書の言葉を引用されながらサタンを退けました。

 

神様の口から出る言葉が、その御力が、恵みによって私たちを「神様は」生かしてくださるのです。神様を私たちは試みて、何か自分の利得になることをしたら信じよう、とかなりますがそうではなく、試みるまでもなく神様はその最大の愛を下さる、生けるパン、いのちのパン、イエス様の命を私たちの身代わりに差し出された、その愛の代わりに何がなるでしょう。これに勝るものが、神様から離れ獣のようになって歩む私たちの身代わりに何の罪もないイエス様が罰せられ死なれる、それ以上の愛がどこにあるでしょうか。命をかけて、まず仕えてくださったイエス様にあって与えられたこの命、神様が新しくしてくださったこの命、どうして神様からまた離れられるでしょう。神様は↑の前でも見ましたが永遠の楽しみに招かれ、そこで食い散らかすほどの神様の恵みを日々注がれている、やがて来る安息の日、イエス様の花嫁として招かれた喜びの日々を食い散らかすほどに、味わわせていただけるのです。

 

↑で神様は続けて「見張り人はみな目が見えず、知ることがない。彼らはみな口のきけない犬、ほえることもできない。あえいで、横になり、眠りをむさぼる。この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。『やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。』」と仰られていますが、それはせっかく神様が救いに来られてもそれでも信じないで命を失いゆく人がいる、と語られています。

 

それは別に、神様が一部の人を見捨てる、という事ではありません。神様は見張り人のようにあなたを守ろうと語られ、導かれる、その状況を見て私たちは何を見、誰の声を聴き、信頼するか、それが問われているのです。神様は「利得に向かっていく」人についてここで語られていますが、神様はあなたに利得を、本当の益、命を与えたいのです。希望を求めさまよう私たち、安息、平安を求めさまよう私たちを本当の牧者たるイエス様が私たちを最高の特権、神様の子とされるその特権に招くために来られたのです。そして、羊のためなら命を惜しまない羊飼いのように、私たちの命を救うため、イエス様は私たちが罪によって滅びることがないように、サタンに食い散らかされることがないように、世に飲み込まれることがないように、私たちを引き上げるため、私たちのこの罪の呪いを、思い煩い一切を引き受けられ、身代わりに十字架で罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる特権が与えられるのです。

 

私たちはこのイエス様にある究極の愛を受けてなお、どうして獣のようにさ迷い歩く必要があるでしょう。イエス様は「あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」。ご自身の利得ではなく、あなたが生きる事こそが喜びと、命をかけたイエス様があなたの内に住まい、その愛を、御心を惜しみなく現される、これ以上私たちはどこに利得を求め、安息を求める必要があるでしょう。ここに神様は完全な愛をあなたに現されたのです。今こそこのイエス様の下さる恵みを求め進み出、食し歩みたいものです。イエス様の命と共に全てがあなたに与えられたのだから、このイエス様から離れず歩もう。イエス様が本当の安息へと今日も導かれているから。あなたを食い散らかすものではなく、あなたに命を注がれたイエス様から離れず。