「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。『わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。』彼らはイエスに言った。『どこに準備しましょうか。』イエスは言われた。『町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい。そして、その家の主人に、【弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる】と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。』彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。」
ルカによる福音書22章7-14節
最後の晩餐と言えば、イエス様が十字架にかかられる前日の食事。どうもへんにレオナルド・ダ・ヴィンチの例のやつで暗号のような感じにされ、本質の部分が抜け落ちてしまったということ。イエス様が最後の食事に招かれた、それも感謝ですが、何よりここでイエス様は多くのことを語られ励まされます。そしてこの食卓に今日私たちも招かれている。あなたをイエス様の命をかけた愛をもって導かれる。私たちは今日、このイエス様の招かれた食卓に進み出ようではありませんか。永遠の食卓、神様の家族として招かれた幸いを覚え。
さて、↑は神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩まれ、いよいよ十字架にかかる前日にあった出来事です。そう、イエス様の十字架はもう目の前に迫っています。イエス様はそのことをよくご存じで、今イエス様は最後の晩餐の時を持つための準備を始めます。イエス様は、これから裏切られ、捨てられ、十字架にかからなければいけない、そんな晩餐なんて気分ではない、一人にしてほしい、とはせず、最後まで愛を注がれることを選ばれます。
イエス様はペテロとヨハネに「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい」と言うと、彼らはイエス様に「どこに準備しましょうか」と答えます。そこでイエス様は「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい」と仰られました。
ここで「わたしたちの過越の食事」とありますが、これはなかなか興味深い話なのです。といいますのも、この過越の食事というのは「家族」でこの時を持るからです。イエス様はただ最後だから弟子たちと一緒に食事でも、とされたのではなく、むしろイエス様は、弟子たちを家族として考え、共に食事をすることを選ばれたのです。この招きに弟子たちは答えました。
いえいえ、過越の食事は家族でするものなので、一回家に帰ります、と言うこともありませんでした。弟子たちはイエス様が何度もイエス様が死ななければいけないことを伝えても理解せず、またまさか明日十字架にかかることなど知る由もないでしょうから、そう答えてもおかしな話ではないかと思うのですが、ここで彼らは「どこに準備しましょうか」、と応答するのでした。
イエス様はすでにその食卓の準備を整えていました。イエス様おひとりの時に、この男性と会ってお願いしていた、という説や何らかの形でこの男性に語り掛け、準備をするようにされたという説もありますが、いずれにしてもこの人はその求めに、何で私が、とは考えずにイエス様がその食事のために私を用いてくださっている、そのことに彼もまた感謝したのではないでしょうか。彼は彼らのために十分な準備を整えていたのです。
イエス様は私たちのためにその食卓をいつも広げてくださっている、私たちはこれに感謝しているでしょうか。「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた」とありますが、そこにはあのイスカリオテのユダさえ招かれていたのです。あなたを家族として招き入れたい、いのちを得てほしい、とその御手を広げて待ってくださっていたように、あなたをも待ってくださっています。
今はその時じゃない、また今度にしましょう、とかそんなもったいないことを言っている場合ではありませんよ。イエス様はこの定められた時、この時こそと言わんばかりの「時間」に一緒についてくださったのです、用意してくださっているのです。どこにもなにもイエス様ご自身が場所も時もすべて必要なところに備えてくださっているのです。
私たちはイエス様の広げられた食卓、あの十字架によってイエス様が私たちの罪の身代わりになって死なれたことによってその食卓は広げられました。その身を割き、血を流され、死なれたことによって私たちが本来受けるべき裁きをその身に負われたことによって、この十字架からの招待状、罪を悔い改め立ち返る全ての人は神様の家族として招き入れられる、その恵みは私たちが考える以上、いつもどんな時も注がれるのです。
私たちは今日、このイエス様の招きに答えようではありませんか。あなたに最後の別れの食卓を開くのではなく、永遠の食卓、家族に招いてくださっているから、あなたの名前を呼んで。このイエス様の命にあって広げられた、与えられた新しい命を、今日私たちはどう生きるでしょう。