―沈黙を貫かれた愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」

イザヤ書53章7-9節

 

誰かをかばう、これはできる人もいるのですが、自分を犠牲にしてでも、沈黙を貫く、それはなかなかできたものではありません。もちろんかばうことが何でもいいというわけでもないでしょう。しかし結果その人が更生、ないし変わるなら、といったところでしょうか。そこがなければかばった人も報われないですが。神様は、あなたが救われるためなら、と御子イエス様を身代わりに罰せられ死なせました。イエス様は無罪なのに、どうして。でも、それでもあなたが救われるためならと、最後まで沈黙、その愛を貫かれました。私たちはこの貫かれた愛、命に今日、どう生きるでしょう。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期から捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために神様が心血を注ぎ救われること、驚くべき良い知らせを、救い主イエス様の誕生について語られてきました。↑の前の章からこの章の終わりにかけてイエス様について、イエス様がしもべとして来られる、そのしもべの歌と言われるものが続いて示されます。

 

↑の前ではしもべイエス様について「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」と、神様はイザヤに示されました。

 

↑でさらに神様は、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」とイザヤに示されます。彼は私たちではありません。私たちが痛めつけられ、苦しんでいる時に神様は口を閉ざされる、と人は考えますが、そうではないのです。この彼は、ここまでの流れからもわかる通り、しもべイエス様です。

 

神様は「彼・イエス様は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語られますが、まさにそのためにイエス様は痛めつけられる必要があった、私たちの苦しみを取り除くためにイエス様は口を閉ざされたのです。

 

イエス様はそもそも言い返す権利だってあります。だってイエス様は何の罪も犯していないのですから。12弟子のひとり、イスカリオテのユダも、イエス様を売り払いながらも、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と、イエス様の十字架直前に告白します。しかし結局それは宗教家たちに受け入れられず、彼は自責の念から首を吊ったのですが。ただ、イスカリオテのユダに対してもイエス様は恨みの一言も仰らなかった。むしろ最後の最後まで、あの最後の晩餐に招いてまで彼を何とか命の道に立ち返らせようとされていたのです。

 

またこれまた12弟子のひとりペテロは、イエス様と一緒なら死んでもかまわないようなことを言っていたのにもかかわらず、イエス様が捕まった後、自分も捕まるのではないか、と恐れ、彼はイエス様と一緒にいた人だ、と周りから言われた時、彼は3度にわたって、自分は知らない、と否定、最後は呪いをかけてまで否定した彼をイエス様は見ていたのです。そして、イエス様はそんな彼を呪うことだってできたでしょうに、口を閉ざされた。ただ黙ってその十字架への道を進められるのです。

 

また、その裁判の中での出来事ですが、「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた。しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。』それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」と12弟子のひとりマタイは記録に残しています。この裁判の間様々な偽証を行う証人が出てくるのですが、誰も彼らの証言が正しいことを立証できません。そして総督でそれなりに地位のあるピラトでさえ、有罪にすれば速いけど、どうみても罪を認めることはできない、と何とか釈放されないか、あの手この手にでます。

 

そんな中で恩赦として、このイエス様か強盗殺人のバラバのどちらかを釈放する、とピラトが決め、提案した時などはまさにチャンスだったはずです。自分の無実性を訴え、自分がどれだけ愛を注いてきたのか、癒してきたのか、それらを羅列し、語り、解放されることを選ぶこともできたでしょう。しかし、群衆がバラバの釈放を願った時でさえ、イエス様は何一つ文句を言われなかった。鞭など肉体的苦痛の極みを受けた時でさえ。

 

イエス様の沈黙されたところを上げれば上げるほどきりがないほどです。しかしイエス様は本来なら神様に捨てられる絶望を味わいながらも、それでも十字架の進まれ、罵らず、かえって「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」自分の無罪ではなく、私たちの罪の赦しを懇願されるのです。自らについては一切弁明されず、むしろ私たちのためならと赦しを懇願。何という愛でしょう。

 

このイエス様の十字架の間のことについて、まさに裏切りの当事者であったペテロは「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と手紙で書き送りました。

 

彼が十字架直前に裏切ったことは誰しもが知っている事でした。その彼自身、イエス様は何の偽りもなかった、そのイエス様を自分は十字架にかけてしまった、そのことをここに記します。あれだけのことをしていながら、イエス様は自分にののしることもされなかった。しかも彼、またイエス様を十字架にかけたすべての人、また私たちの罪をその身に負われてまで愛を貫かれた、沈黙を貫かれたのです。イエス様は十字架にかかられて3日後によみがえられましたが、そのあと弟子たちにも会いに行きました。そしてイエス様は裏切った弟子たち、呪いをかけたペテロを罰し、のろうのではなく、むしろ彼らの罪を赦された、悔い改めに導かれ、新しい命、永遠の命へと招かれたのです。まさにその義を私たちが受けられるよう、イエス様は筆舌に尽くしがたいほどの苦しみをその身に負われた、私たちが本来受けるべき刑罰を、裁きをその身に負われたのです。

 

「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを」と、神様はイザヤに示されますが、自分の時代だけ、一時的に命を得ればいい、ではなくあなたを永遠の救いへと招かれる、そのためにイエス様はその命を絶たれたのでした。

 

私たちはこれは昔の話、わたしには関係ない、と思っていないでしょうか。一時的に癒されれば別に神様なんて関係ない、と思っていないでしょうか。むしろイエス様はあなたを関係あるもの、絶たれる者からつながるもの、神様の家族に、その十字架によってつなげてくださったのです。

 

ちなみに、山本七平さんという人が古代の十字架刑について研究し、分かったこととして「…古代のそれ(十字架刑)はナチの実験よりもさらに残酷であった。手くび(手の甲ではない)は釘で打ちつけられているから、腕まげで身体を持ち上げようとすれば恐ろしく苦痛であり、足で持ち上げようとすればこれまた釘で打ちつけられている。さらに股のところに『角』といわれる木が出ているから、力つきてぐったりと下って急速に窒息しそうになると、この角が体を支えてまた息を吹きかえさす。これを何時間も何時間もなるべく長くづつけさせて、死の直前に何回も到らせる。そして最後に脛を折られると、力つきた身体は支えを失ってだらりと下がり完全に窒息死する。(福音書記者の)ヨハネによる『イエスと一緒に十字架につけられた第一の者ともう一人の者との脛を折った。しかしイエスのところに来て、すでに死んでおられるのを見ると、脛を折らずに、死をたしかめるために、一人の兵卒が槍でその脇腹を突いた』とあるのはこのことである。これを『十字架にかけて槍で突き刺す』と誤解しているらしい記述を見かけるが実態はそんな簡単な殺し方ではない」と、その残虐性について書き残しました。

 

イエス様はこの残虐性を知っていました。それこそ十字架にかかる直前のゲツセマネの園というところで祈っていた時に、願わくばこの杯を取り除いてほしい、と祈ったのももしかしたら、と考えるところですが、イエス様は神様から完全に十字架上で一時的とはいえ絶たれる恐ろしさを知っていたのです。それはこの十字架の極刑以上のもの。しかしイエス様はそれを望まれませんでした。そのため最後まで沈黙を貫かれ十字架上で死なれたのです。

 

神様は↑の最後で「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた」と、イエス様の十字架後について語られます。イエス様は他の死刑囚と一緒に本来は、囚人置き場のような場所に葬られるところ、そこからアリマタヤのヨセフという金持ちの人の計らいによって、まだ使っていない自分の墓を提供し、イエス様はそこに葬られました。本来神様から罪人として完全に絶たれるはずのところを、私たちはイエス様が復活によって新しい墓から、豊かな新しい命へ、永遠の命へと引き上げてくださるのです。

 

イエス様の死、その飲み干された杯はあなたが本来飲むべきもの、しかしイエス様は身代わりにこれを飲まれ、葬られ、よみがえられたことによって私たちに永遠の命、恵みという杯を注がれたのです。このイエス様の沈黙を貫かれた愛の前に、神様が沈黙してなにもしない、と離れ、終わりに向かう杯を飲むのではなく、神様が日々沈黙されることなく命がけで注がれた愛を受け、これに生かされ、歩みたいものです。