―訪れたその時、機会― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」

ルカによる福音書22章1-6節

 

ふと私たちの命というものを考えてみますと、本当に素晴らしいものだな、と思います。その誕生からしても、医療技術の発達した現在でも途中失われる命もありますし、自力で誕生するわけでもなく、親を含めた様々な支えの中、いや何より神様の支えなしにはこうして誕生できなかったわけです。いや、神様が魂を吹き込まれ、この体を造り上げ、今がある。そう考えると、この命は神様からのプレゼントそのものなのです。あなたはこの神様から与えられた命、プレゼントを今日どう生きるでしょう。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられその公生涯を歩まれ、ついに十字架にかかる直前にあった出来事です。この過越の祭りが近づいたある日、イエス様を殺そうとする祭司長、律法学者たちとイスカリオテのユダがついにイエス様殺害計画のために動き始めるのでした。

 

そもそもこの過越の祭りというのは、かつてイスラエルの民がエジプトに400年ほど捕らえられていた中で、神様がモーセという人を通して救い出された、その時のことを祝うものであり、やがて来る救い主誕生の予表ともいうべきものでした。まさに彼らが何百年も待ち望んでいた(イザヤの預言から大体700年と言ったところでしょうか)そのイエス様が、今まで様々な預言を成就され、その預言の通りいよいよ十字架にかかろうとしていた、もう分かりやすい神様のしるしをある意味で見ながら、祭司長、律法学者たちは、どうしたら自分たちは救われるのだろうか、と議論するのではなく、イエス様を殺す計画を目論むのです。

 

彼らは民衆を恐れていました。イエス様は民衆に人気があったので、下手に手を出せばどうなるかわかったものではない。彼らは神様よりも、民衆の目を気にしていたので、評判を気にしていたので、彼らが自分たちをますます離れ、イエス様についていってはまずい、ならイエス様を何とかそれを避けながら殺せないか、必死になっていたのです。

 

一方イスカリオテのユダです。そう、あの裏切りの代名詞のユダです。彼はイエス様の公生涯の3年間の間、12弟子の一人としてずっとイエス様の傍にいました。彼は会計係を任されていましたが、時折その中のお金を自分の懐に入れていた、と言いますか会計をごまかしていました。もちろんイエス様はそのことを知っていましたし、彼を会計から外すなり、弟子を解任することもある意味できたでしょう。しかし、解任はされなかったのです。イエス様はそれでも何とか彼が立ち返ることを願っていた、側においておくことはある意味では恥とも言えたかもしれない、それでもイエス様はそれよりも彼が救われることを何よりも願っていたのです。

 

実は別の福音書ではイエス様は、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とこの直前の時について書かれ、イスカリオテのユダも実は大事な最後の晩餐に招待していることが記録されています。イエス様は彼が裏切ることを知っていた、だから最後の晩餐の席で自分のすべきことをしなさい、とイエス様はユダに伝えたのです。イエス様の願いは願わくば彼が悔い改めること。書かれてはいないのでわかりませんが、仮にユダが裏切らなくとも、イエス様は十字架にかかりに進まれたのではないか、と思います。まあこのことについては預言されていましたから何とも言えませんが。

 

ユダがなぜ裏切ったのか。正直なところ分かりません。ある人は、ローマ帝国打倒の王として、リーダーとして立ち上がってくださると思っていたのにそれをなさなかったから期待外れだった、という人もいますし、彼はイエス様をこの世の王として立たれること、そしてその側近に自分が置かれることを期待していたけど、イエス様は十字架にかかり死ななければならないことを何度も告げられる中で、自分の思う救い主ではなかった、と失望したという人もいる、ただお金に固執していたという人もいます。

 

しかし、彼のその心の隙間をサタンに狙われるのでした。サタンは神様を疑わせるのが大好きで、エヴァが罪を犯したときも、神様のことばを疑わせてきました。本当にそんなことを言ったの?って。サタンはその時、エヴァに「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と言ったのですが、神様がまるで神様のようになることを嫌がっているように嘘を織り交ぜ、彼女の欲望をくすぐり、食べてはいけないと言われていたものを食べさせたのです。

 

しかし、神様は人を造られた時について、「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」、と書き残されています。神様は、適当な存在として人を造られたのではない、ご自身のかたちとして創造されたのです。それがどうしてだめなはずがあるでしょう。神様に似せて造られたんですよ?そこに神様の息吹が吹き込まれているんですよ?

 

確かに人は欲があると言いますか、何かいいことがあっても次々、となっていき、いつまでも満足することがありません。しかし神様は不完全なものを与えるのではなく、むしろ神様の造られた本来の姿に私たちを回復させたい、そのために今いのちをかけられるのです。これだけのことが起こっていることを知っていながらなおユダを突き放すわけでもなく、十字架への歩みをやめることなく進まれるのです。

 

ユダはこの素晴らしい命を、この機会を、銀貨30枚で売り払ったのです。そして律法学者とパリサイ人たちもサタンにその心を明け渡し、イエス様を殺すために協力し合うことになるのでした。ちなみに、後にユダは後悔し、その銀貨を投げ捨て、自死することとなるのですが…しかし、銀貨たった30枚で売られることになるイエス様は、それでも彼らを捨てることなくかえって、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれ、しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人に罪の赦し、永遠の命を与えてくださったのです。

 

私たちに今必要なのは銀貨30枚ではありません。ただこのイエス様の御前に悔い改め立ち返る事です。私たちはこのイエス様にあって与えられた機会、このいのち、12弟子ではありませんが、今どう生きるでしょうか。あなたにはイエス様の心血と言いますか、命がけの愛が注がれて今日あるのです。私たちはもう古い疑いから離れ、神様のくださった完全な救い、命の内を歩ませていただこうではありませんか。救われれて終わりではない、とこしえに続く神様の恵みに生かされ、歩みたいものです。