―良い知らせが届く日が来る― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。まことに主はこう仰せられる。『あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。』まことに神である主がこう仰せられる。『わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。さあ、今、ここでわたしは何をしよう。―主の御告げ―わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。―主の御告げ―また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、【ここにわたしがいる】と告げる者がわたしであることを知るようになる。』良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」

イザヤ書52章1-7節

 

近年、メールやラインなどによって連絡のやり取りがだいぶ簡素化されてきていますが、昔は手紙が主な連絡手段でした。誰であっても、そうした手紙や連絡が来るのはとてもうれしかったことを覚えています。今は?もちろん今もうれしいですけどね。特に就職や入試においての合格通知が来た日にはどれだけ喜びにあふれるか。ある意味では人生を変える知らせになりますよね。それはそうと、神様はあなたを本当の意味で生きたものにしたいと、よい知らせを届けてくださりました。それが御子イエス様の誕生であり、そこで終わらずに私たちの間に住まわれ、愛を現し、十字架にかかり死なれてまであなたを救おうとされたのです。私たちはこのイエス様があなたにもたらされた良い知らせをどれだけ良い知らせと思っているでしょうか。イエス様はあなたに良い知らせを現したい、あなたはこれを受け取っていますか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを救い出すことを約束されました。たとえ誰が見捨てようとも、神様はその御手にあなたへの愛を刻み、見捨てず、十字架への道、彼ら・あなたへの救いを諦めず、怒りの杯を飲み干し、最後までその愛をやめずに実行されることを約束されるのでした。あなたの慰めとなるため、救いとなるため。救われ、恵みの時、救いの日を迎えさせて下さる事を示されたのです。だから神様を、義を追い求めよう、と訴え私たちを招かれるのでした。

 

神様はなお「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」語られます。↑の前の箇所では、今、自分たちがどのような状況に置かれているのかを目を覚ましてよく見なさい、と神様は訴えられました。ここでも同じように、イスラエルの民に、自分たちの姿をよく見るように、と訴えるのです。

 

彼らの現状と言えば、目に見えるところでは悪王マナセの統治によって悲しみに国が包まれ、さらにはバビロンが台頭してきてその脅威が差し迫っている。一方で神様はやがて子の捕囚から解放されること、また捕囚中も共におられ守られること、何より救いのために神様はそのお心を注ぎ続けている、ということが語られていました。それこそこれまでイスラエルを捨てなかった神様が、何とか彼らに命を得てほしい、と。

 

彼らが見えるべき現状、それは何でしょう。それは苦難の方か、それともその中においても神様がおられるということか。それは後者です。「力をまとえ」といいますが、じゃあその力は自力で頑張って、気合を入れろということなのか、というとそれを神様が言うのには無理があります。むしろ神様が心血を注がれる、ご自身の御力を今現そうとされているのだから、その神様に自信を委ねる、その中に神様の御力が豊かに、完全に現されるのです。古い痛みや悲しみ、傷、彼らの罪も一切は洗い聖められ、神様が新しい衣で覆ってくださるのです。美しい姿、神様ご自身があなたの内に働かれる、その姿はまさに美しいものとなるのです。

 

そうしてくださる神様が今いる、今語られている、今そこへ導こうとされている、それがあなたのある意味では現実なのです。今見るべきことは他でもない、神様なのです。それは目の前の現状に心を奪われる、支配されるというのは分からないこともありません。しかしそんなものに支配されっぱなしなんてもったいないじゃないですか。むしろ神様はそこから救い出したい、と訴えてくださっている、その具体的な思い、ご計画も持っておられ、語られている、語られるのです。そうした目に見えない鎖にいつまでも捕らえられてはいけない、むしろ神様はそこから解き放とうと、ご自身を現されるのです。その神様がおられる、あなたはこれをどれだけ感謝しているだろうか、確信を持っているでしょうか。

 

その神様は続けて、「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。…わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。さあ、今、ここでわたしは何をしよう。―主の御告げ―わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。―主の御告げ―また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる」語られていますね。

 

イスラエルの民は確かにかつてエジプトに捕らえられていましたし、彼らの記憶に新しいこととしてアッシリヤ捕囚、そして今危機が迫るバビロン捕囚があります。私たちも厳しい中にある時、神様はどうしてこのような状態に私を置くのか?と疑問に思うようなことだってあります。

 

しかしよく考えてみますと、このイスラエル、また私たちは誰のものなのか。神様は「あなたはわたしの民だ」とイスラエルに言われたように、彼らは、私たちは神様のもの、神様の民なのです。その神様の民を彼らに売り渡した覚えなど当然神様はありません。確かにイスラエルは自分の罪のために神様から離れ、その罰を受けました。ただそれは彼らを懲らしめるためであって、彼らを売り渡したわけではないのです。

 

それにもかかわらず、アッシリヤやバビロンは何を誤解したのか、自分たちの所有物であるかのように勝手に危害を加えたのです。「あなたはわたしの民だ」と宣言される神様はあなたが辱められたまま、何より神様の御名が辱められたままにはされません。神様により頼むあなたをどうして神様は汚れたまま、囚われたままでいさせることがあるでしょうか。神様は、むしろご自身の栄光、わかりやすく言うと神様のすばらしさ、愛を現される方です。「ここにわたしがいる」と神様ご自身が現わされるのです。神様という美しい衣を着せていただけるのです。

 

神様がなぜ私たちを見捨てず、愛され救ってくださった、救ってくださるのか。私たちが優れていたからでしょうか、頭がいいから、上品だから、いい人だから、真面目だからでしょうか、いやそうではありません。むしろ私たちが救われたのは、ただ神様が私たちを愛してくださったからです。ただ神様がそのようにしたかったからなのです。だからと言って神様はその愛を惜しまれる方ではありません。これくらいの人間ならこれくらいの愛で十分とか、そんな方ではないのです。

 

↑の一番最初のことばをもう一度思い出してください。「力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム」と仰られたのは誰ですか?他でもありません、神様です。ではそれをまとわせ、着せてくださるのは誰ですか?神様です。神様ご自身が力を注ぎ、「美しい」衣を着せてくださる、私たちの美しさではなく神様の目から見た美しい衣なのです。神様が「力」ある、また「美しい」衣をまとわせてくださる、それがどうしてこの世のものに劣ることがありましょう。私たちでは考えつかないような驚くべきことをなして下さるのではないでしょうか。

 

↑で神様「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」仰られていますね。

 

神様は、その驚くべきことを届けるために、良い知らせそのものとして、御子イエス様を私たちのために遣わされました。しかも、神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除いて人となって生まれて来てくださったのです。しかも、聖霊様によって一人の女性に宿られた、まさに全く人と同じ道を歩まれたのです。イエス様が体験されなかった苦しみなどありません。生まれ育ちを考えても神の御子としてイメージする姿とはかけ離れたものでした。しかしイエス様はそれを苦とも思わずその中に住まわれたのです。

 

神様はすべての人のところにその良い知らせを届けるため、イエス様をしもべとして、遜るように歩ませてくださったのです。謙遜に、どんなに迫害され、罵られようと、ありとあらゆるところに届けられました。社会から見捨てられた人、差別に苦しむ人のところ、明らかに罪人と言われる人のところ、悪霊につかれた人、家族に見捨てられた人のところ、ありとあらゆる人に出会われ、出向いて行かれました。時にはイエス様を殺そうと目論む人たちにさえ天の御国、救い招かれました。あのイエス様を銀貨30枚で売り、裏切ったイスカリオテのユダにまで最後までその愛を注がれました。

 

神様は中途半端な良い知らせではなく、完全な知らせ、救いを届けに来られたのです。そして最後は罪のゆえに死にゆくしかない私たちを救うために、私たちの身代わりに処刑場、十字架にまで登って行かれたのです。私たちの罪の身代わりに。その十字架上でも、十字架にかけた人たちのために「父よ、彼らをお許しください、彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と私たちの罪の赦しを懇願され、私たちに良い知らせを届けられたのです。ついにはイエス様は死なれて、陰府に行かれ、本来陰府に行くべき私たちにやはり救いの、良い知らせを届けられ、ついには3日目によみがえられ、この良い知らせを完成されたのです。このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪が赦され、神様の子とされるという最高の特権、喜び、知らせを。

 

神様はこのイエス様による救いにあって、本当の命の衣、美しい衣を着せてくださりました。私たちは今やイエス様を着せられた、そこには区別はありません。イエス様が私たちの内にイエス様が住まわれ、その神様のすばらしさ、十字架による完全な勝利、御力があなたの内に注がれ、それを帯びさせ、イエス様にある平和があなたの内に満ち溢れさせてくださるのです。私たちは今日イエス様の救い、良い知らせの前に目を覚まし、この完全な愛、王なるイエス様がご自身の命にあって取り戻されたあなたの内に現される愛、御心に信頼し歩もうではありませんか。イエス様がもたらされた良い知らせ、救い、永遠の命は一時ではなく、もう始まっているのだから。