―もう一度エデンの園のように― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」

イザヤ書51章1-11節

 

最近知ったのですが、私の住んでいる町には、様々な悩みで苦しんで病院に通う人が最も多い町なんだそうですが、私のところはともかくとして、今本当に様々な事で傷ついて、苦しんでいる人が多いですよね。ただ神様は仕方ないよ、で終わらせない神様。神様は真の慰め主としてあなたと共におられ、あなたの内に住まわれ、慰め、言い尽くしがたい喜びに変えてくださる。何にもかえがたい御子イエス様の命、愛を今日も注がれている。今日イエス様がどれだけの愛を注がれたのかに思いを馳せ、このイエス様があなたの内に成そうとしていることに大いに信頼し委ねようではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを救い出すことを約束されました。たとえ誰が見捨てようとも、神様はその御手にあなたへの愛を刻み、見捨てず、十字架への道、彼ら・あなたへの救いを諦めず、最後までその愛をやめずに実行されることを約束され、救われ、恵みの時、救いの日を迎えさせて下さる事を彼らに示されたのです。神様の愛はある時で止まるのではなく、生まれたから死に至るその日、終わりの時、御国の来るその日まで止まらない、と。

 

神様はなおイザヤを通して「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある」語られます。

 

まず、ここで神様が語られているアブラハムとサラという人は、イスラエルの草創期、部族の一番最初の人となります。アブラハムに彼が75歳の時、神様「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」語りかけられ、それに応答したところから彼らの部族・イスラエル部族は始まりました。

 

とはいえ、突然人間が出現するわけがないというのは言うまでもないでしょうが、彼はノアの箱船で有名なその洪水を生き延びたノアの子孫から生まれ出ます。ノアの子供は3人いたのですが、その3人の子孫の中の一人、アブラハムを神様は選ばれた、そこから始まったのです。彼の時代はおおよそ紀元前1800年ごろになりますが、たった2人の部族から大いに広がっていった、国家をなすほどに広がっていったのです。途中、エジプトの奴隷として400年近くとらえられたりと様々な困難がある中、彼らはすたれることなく、イザヤの時代も残されています。また、現代もイスラエルの民は多くの迫害などを通りながらも今残されていることは驚きですよね。アウシュビッツなどを考えると、殲滅されていてもおかしくない中で。

 

そう、切り出された岩・イスラエル、それを切り出されたのは神様です。神様があなたを選ばれ、造られた、あなたを今あるところに置かれた、その神様があなたを様々な苦難困難の中にあっても守られ、導かれるのです。これまで神様は多くの希望、慰めを預言の中で語られてきましたが、なぜそんなことが言えるのか?あなたを選ばれ、あなたを造られた神様があなたを見捨てないからです。ご自身が選ばれた故に、神様はあなたに生きてほしいのです。あなたに生きてほしいから、ご自身のもとに引き寄せてくださったのです。

 

イスラエルの民はこれから捕囚という困難が待っている、私たちにも多くの困難がある、ただ、神様があなたを呼び出し、ご自身の命、祝福の内に招かれたのです。あなたを廃墟のままにするのではなく、むしろ一番最初にアダムとエヴァを住まわせたエデンの園のように。神様ご自身が園を潤し、アダムたちを満たしていたように、神様の愛という実を食べながら生きていたように、私たちを神様ご自身が日々養われ、守られるのです。この命の関係に神様は回復させたいのです。新しいあなたへ。

 

神様はここで「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け」仰っていますが、義とは、神様の正しさ、いや神様ご自身と言ったらわかりやすいかもしれません。神様が、まさに切り出された岩のように、自然発生ではなく、神様ご自身がその御手の中に守られているからこそ、神様をたずね求めよ、いやたずね求めて良いんだよ、と招かれるのです。神様があなたに日々語られ、導かれるから、神様に聞こう、と。

 

イエス様「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。…義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」仰られました。神様を求めて何になる?ではなく、神様ご自身が神様の愛で私たちを満ちたらせてくださる、私たちの思う以上の。天の御国が、その喜びがあなたの内に満ち溢れる。古い、傷ついた私たちを新しい私たちへ。私たちの手では回復不能、不完全、もう荒れ地、砂漠のような状態になろうとも、神様がその義、イエス様の十字架による救いによって、あなたを完全、イエス様の似姿に日々近づけてくださるのです。私たちは今日何を求めているでしょうか。このイエス様という一枚の岩から切り出された、復活のイエス様から与らせていただける新しい命の中、いつもイエス様を仰ぎ見、離れず歩みたいものです。

 

さらに神様「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」語られます。

 

↑の一番最初で「義を追い求める者、主を尋ね求める者」と神様は呼びかけられていましたが、まさに神様はその義に招かれる。追い求める、と仰られているからと言って神様は遠い方、どこにいるのかもわからない方ではないのです。どこにいるか、何をしてくれるか分からないから、あきらめよう、ではなく、むしろ神様ご自身が私たちに近づいてきてくださったのです。「義は近い」とここで仰られるように、どこか遠くの誰かのうちに現されるのではなく、神様はあなたにもその愛を、義を、神様の完全な御心を現したいのです。神様ご自身からその愛が溢れ流れ、あなたの暗闇に光を灯し、神様ご自身の栄光・すばらしさ、いのちの内に招かれるのです。

 

そのため、神様は御子イエス様を神であられるのに人として生まれさせられないとは考えず、罪を犯さない点を除き全く同じ人間となり、近い存在、あなたのただなかに来られた、生まれてこられたのです。どこにいるかもわからない、遠い存在としてではなく、あなたの救いとなるために。イエス様も鞭を打たれれば血を流しますし、傷つきます。なんで神の御子たるイエス様がご自分の民、私たちに受け入れられず罵られ、傷つけられなければいけないのか。いやそれだけではなく私たちの罪をわざわざ身代わりに背負われなければならなかったのか。それはあなたを愛しておられるからです。あなたに死ではなく、救い、永遠の命をもたらすためです。

 

そのためイエス様は私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかられ死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。そうして「しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ」と神様ご自身が語られるように、神様は私たちにとこしえの命、このイエス様の命にあって回復された関係、エデンの園にあった完璧な恵みの内にもう一度招かれる、回復させてくださるのです。復活のイエス様の命と共に、私たちも再創造、新しくされるのです。あなたを食い尽くそうとする様々なものも、かえってこのイエス様が「しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす」ようにそれらを打ち砕かれます、イエス様の命が、御心があなたを覆い、それらはもはやあなたの前に立ち上がることはできません。

 

すべてのことはこの神様から始まります。神様は、私たちを喜び歌える、頭にはとこしえの喜びをいただき、楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去るようにさせてくださります。イエス様の十字架によって、私たちをそのように変えてくださるのです。イエス様の十字架、義が、あなたを今日覆うのです。今日私たちは神様を、この神様がイエス様にあってなされた義に信頼し、歩ませていただこうではありませんか。神様が回復された日々、エデン、連れ帰ってくださる神様の御国につながる道がそこに広がっているから。何もないと思う中に神様が今日驚くべき御心をなして下さるから。