人を人材として見ない | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

いつの頃からか私達の社会が「人間」「人間として」理解し取り扱うことよりも「人間を人材」として受け入れ、「何かをやってもらって意味が出てくる人材」「できない人は不要」と存在を否定されてしまう「人材」としてとしか見ようとしていない雰囲気をとても強く感じることがあります。

 

できることは素晴らしいことですし、人材として優れた役割を果たせるのだろうと思いますが、人間を「人材」としか見ないことが、その人の人間としてのいのちや存在を「不要」というレッテルを貼ってしまうことにならないだろうかと危惧しますね。

 

奥田先生という方がこのように語っておられます。

「その人が必要とか不要」というレッテルを貼るべきではなく「その人のいのち」そのものが最も重要なものであり守られるべきものだ、と。

 

とはいえ、社会の中で、あるいは会社や学校の中で能力別にレッテルを貼られ「不要だ」と言われているような気持ちでいる人達の数は決して少なくないと思います。そして、その属している集団の中で不要というレッテルを貼られると、おのずと、自分自身も「いないほうが良いのではないか」とか「自分の存在など不要だ」と決めつけてしまっていることが多いのではないかなと思います。

 

しかし「神様はどうでもいい『いのち』をお創りになるほどお暇ではありません」。

 

私たちは心を込めて「あなたのいのち、存在は、御子イエス様の命を見代わりにされるほどに本当に尊く大事なのだ」ということを意識しながら歩みたいものですね。