―喜び楽しもう!慰め、回復の時が来たのだから― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。『王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。』主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。わたしは捕らわれ人には【出よ】と言い、やみの中にいる者には【姿を現わせ】と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。』天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。」

イザヤ書49章7-13節

 

人に話をするとき、うわべだけで語り、言うべきことを避けると、ある意味では表面上よい関係を維持できるのかもしれませんが、それは本当の良い関係にはならないんですよね。いざその人が実は抱えた問題があって、それを無視して語らずにいたなら。相手を思うゆえに時には語らなければいけないこともあるんですね。神様は色々な事を語られます。時にはそれは自分には耳が痛い話かもしれません。しかし、私たちが本当の意味で生きること、滅びではなく永遠のいのちを得てほしいと願われ、今日も語られます。私たちはこの神様の声に耳を傾け一歩踏み出してみよう、神様があなたにその道を備えてくださっているのだから。

 

さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。そして救って終わりではなく、母の胎内にいる時から形づくられ、導かれている神様が、みことばをもって、途切れることのない愛、御心を、御力をもって、今日も明日も、それこそ白髪になっても、死して後に至るまで背負い導いて下さる事秘められた神様のご計画が現わされていくことなどを見てきました。

 

↑の直前から神様は御子イエス様をしもべとして遣わさること、その御姿について語る・歌ってこられましたがなお神様は続けて「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。『王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。』」語られます。

 

神様はここで「人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷」にむけて語られているわけですが、そもそも昨日分かち合わせていただいた箇所の中で、神様の口には鋭い剣と矢をもって願わくば全ての人が救われることを思い御子イエス様をしもべとして送られ、遣わしてくださったことを見ましたね。

 

そうなんです、ここで神様が仰られたいことはもちろん、バビロン捕囚によって囚われて、忌み嫌われ、支配者たちの奴隷のようにされ、さげすまれていたところから、これまで預言の中で観てきましたように、メド・ペルシャの王、クロスによって解放させ、まさに首長たちの前に、いや救い主の前に彼らがひれ伏す、そういう意味合いもあります。神様は確かにそのような苦しみの中にある私たちを見捨てず、何とか救おうと、惜しむことなくその矢を、愛を、御手を伸ばされあなたを救おうといつもそのお心を向けられているのです。

 

ただ、神様の愛は一時的な救いにはとどまりません。確かにバビロンにから解放されます。そして彼らはイスラエルの前に結果的にひれ伏す形となるわけですが、神様はさらに私たちの内に踏み込まれるのです。私たちが世にあってさげすまれる、それもあるでしょう、しかし私たちが罪という者の奴隷となって、支配されてしまっている私たちを贖う、買い戻し、救いたいのです。

 

それゆえ、ここでようやくこの「人にさげすまれている者、民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷」の本当の姿が見えてくるのですが、実はそのように扱われる者はすべて単数形でどうも書かれているようで、ただイスラエル人を救います、困っている人たちを救います、とかそういうレベルの話ではないのです。そう、まさに父なる神様が贖い主として立てられたその方はイエス様なのです。神の御子イエス様がそのようになられたのです。事実、イエス様は神の御子であられながら、ご自分の世界に来られたのにもかかわらず、イスラエルの民は受け入れず、さげすみ忌み嫌ったのです。そして支配者たちによって奴隷のように扱われた、あの十字架で。ピラトやヘロデといった、傀儡の王にさえ。

 

12弟子のひとり、ヨハネはなぜそこまでイエス様は遜られたのかについて、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と書き残します。

 

イエス様は多くの裏切りにあいます。多くの奇跡をおこなわれ、しるしも示されました。彼らが待ち望んでいた救い主が今目の前に来られているんだ、と。預言が成就されていく事を示されながら、まさにこの神様の愛が、計画が実現しているんだ、とどんなに裏切られても愛することをやめず、徹底的に遜られました。もうやってられるか、と群集、裏切る弟子たちも含め、彼らを見捨てるのではなく、最後まで十字架から降りることなく、十字架上では「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのか分からないのです」と、私たちの罪の赦しを十字架上で懇願されたのです。

 

神の御子イエス様がそこまで遜られ、私たちの贖い、身代わりにその罪の代価を差し出されてまで神様は愛されたのです。あなたが命を得るならば、と。その神様の愛が今、イザヤたちに、イスラエルの民に、捕囚期の民に向けられているのです。神様から離れ、好き勝手に生き、自分たちを救ってきてくださった神様をさげすみ、偶像が自分を救ったんだ、と好き勝手に言われても、それでも何とか立ち返るように、神様は怒りと裁きの宣言をされる前に、救いを示されたのです。神様の謙遜が彼らの前をいっていることを今。

 

この徹底したイエス様の遜られたその十字架の前に、すべてのものはひれ伏す時が来ます。何だ、未来の話か、と思いますか?確かに終わりの時にイエス様が再び来られるときにそれは完全になるわけです。この世の全ての権威あるものもすべては膝をかがめ、地にひれ伏す日が来るわけですが、それまで神様は黙ってみておられる、放置されるというわけではありません。それはこれまで見てきたように、バビロン捕囚前に神様は預言者を通して語られ守ろうとしていたこと、捕囚中にも預言者を通して励まし、守られ、また宦官にイスラエル人を置いてくださり、社会的にも守ってくださっていたのです。

 

イエス様は、確かに遜り謙遜に仕えられましたが、人々を苦しめる病や、社会的に苦しんでいる人たちを癒され、同時に人々を惑わす宗教家たちに対して黙っていたわけではなく、はっきりと罪を指摘されたことは今ルカによる福音書でずっと見てきた通りです。イエス様の謙遜は、ただなんでもありのままで、その通り、何でも好きにしてくださいと言った変なものではなく、むしろ働かれる神様なのです。あなたが救われるためならば、と戦われる、十字架による救いへと招かれるのです。その道を、イエス様が謙遜に、遜られ、そのいのちをもって切り開かれたのです。その終わりの時に一人でも多くの人がイエス様を救い主として信じ、この救いの恵みに与れるよう、今日もあなたの内に働かれる、私たちもこのイエス様の御前に遜り、いよいよイエス様の命がけの愛、謙遜によってなされる大いなる御業が増し加えられることを祈りたいものです。真の王、救い主イエス様が今日も生きておられ、救いの日に向け導かれているのだから。

 

この事について神様「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。わたしは捕らわれ人には【出よ】と言い、やみの中にいる者には【姿を現わせ】と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。』」約束されています。

 

そう、今こそが恵みの時、救いの日であり、神様が助けて下さった、御子イエス様が命がけで、十字架に私たちの身代わりにかかって下さり、身代わりに罰せられ、死なれてまで取り戻された救いの日なのです。遠い昔にあった話でも、寓話でも何でもない、神様の完全な愛が、その愛が現わされた十字架によって成し遂げられた現実、それが今あなたの内に現そうとされている、それを受け取らずにどうしていられますか。いや、後は自分の好きなように生きるなどとどうしていえましょう。むしろこのイエス様にあって完成される日、一日一日の中に現される恵みを味わわせていただこうではありませんか。あなたが相続させていただくこの命、その御国、それはイエス様の命がけの愛がけの愛が豊かに働かれるのだから。

 

神様「わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ』と言う」仰られますが、この天地万物は、神様のことばによって、造られた、無から有を造りだされた神様のその言葉には力があるのです。あなたの内に御子イエス様にあって、死から命へと引き出されたこの神様があなたの内に現される恵みはすべてを変える力があります。あなたではなく、神様ご自身が成し遂げられるのです。神様の語る言葉は虚しくかえってくる事はなく、必ず実現されるのです。

 

その思いを込めて、最後に神様「天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ」語られています。もちろんその完全な姿はやがて来る完全な御国、イエス様の治める千年王国において現されますが、人知をはるかに越えた「喜び」と「楽しみ」の世界は、今語られているのです。今悩める人を憐れまれ、慰め、楽しみ、喜びの声に変えて下さるのです。ここから始まるのです。イエス様の救いを受け入れた人の内に蒔かれた種がやがてそれらの種は芽吹き、大きな喜びの花を咲かせるのです。それがもう始まっているのです。

 

天や地に豊かに溢れさせて下さる祝福が、さらに今日、あなたの周りに、また隣人に、また全地に溢れ流れ、恵みの時が本当の恵みの時となるよう、私たちもこの恵みの時を与えて下さっているイエス様に執り成し祈り、また世に仕えるものでありたいものです。