「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。』しかし、私は言った。『私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。』今、主は仰せられる。―主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。―主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。』」
イザヤ書49章1-6節
人は努力をしますが、なかなか報われないと、評価されないこともありますよね。ただ、色んな仕事を見ながら感じるのは、見ている方は見ている、周りが何と言おうと。何より、どんなに大変でもあなたの内に、あなたの働きの内に、あなたの様々な状況の中にあって神様を求める、お迎えするとき、あなたの内に働かれる神様が驚くべきことを成し遂げてくださるのです。そこから広がるその栄光・神様のすばらしさはいかばかりか。私たちは今日、この神様に今日立ち返り、委ねたいものです。ここに神様の御心がなるよう祈り。
さて、↑は古代イスラエルのバビロン捕囚期~捕囚後について神様がイザヤを通して預言された続きです。ここまで神様はイスラエルを見捨てられず、捕囚中も守り、ついにはバビロン捕囚からの解放のために、メド・ペルシャの王クロスをたて、イスラエルを、そして彼らに捕らえられていた諸国をも救い出すことを約束されました。そして救って終わりではなく、母の胎内にいる時から形づくられ、導かれている神様が、今日も明日も、それこそ白髪になっても、死して後に至るまで背負い導いて下さる事、新しいこと、秘められた神様のご計画が現わされていくことを見ました。それこそ、あなたの側にいて慰め、回復されることを。
ここで神様は「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」とイザヤを通して語られます。少々この「私」が誰なのか、悩ましいものがあるのですが、これは後に人となって生まれてこられるイエス様を指します(イエス様自身はこの天地万物が造られる前からおられ、時には人となって生まれる前・受肉前の時から時々特定の人の前に現れ、語られたり、助けたり、様々な事をなされました)。
ですから、厳密にはこの先の預言はイエス様の働きに該当する話であるのですが、同時にイザヤの時代にこれから起こる、起こるか分からない人の不安の中に事を起こされるのは神様なんだ、ということをここで訴えているのです。私たちは人生の主役は「私」と考えますが、そうではありません。あなたの内にイエス様が住まわれ働かれる時、あなたは神様の栄光を現すものとなる、神様があなたの内に驚くべきことをなされるのです。確かに承認欲求と言いますか、自分が褒められたい、認められたい、という思いが人にはありますが、しかし、神様があなたを建て上げられるからこそ意味がある、そこにいのちが溢れるのです。神様があなたの内に最善を働かせてくださるのです。
ソロモンという古代イスラエル王国3代目の王だった人は「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」と詩に残しています。
彼は神殿建設や宮殿の建設の働きが目立ち、また諸外国にもその名をとどろかせましたが、一方で私生活はとてもだらしなく、国を混乱させるほどに至った、その彼は、神様が建て上げられる家、あなただからこそ意味がある、神様が守られ、見張ってくださる中に驚くべき実を見ることを告白するのです。神様を慕い求めていた時こそ、生きていた、と。
話を戻し、神様はある時だけ関わる、助ける神様ではなく、私たちが本当の意味で生きることをずっと願われている、滅びではなく救われることを願われていることが↑からもよくわかります。といいますのも、イエス様は人となって生まれる前からもう選ばれていた、といいますか、正確には人類最初の人アダムと、その妻エヴァが初めて罪を犯したとき、神様はその時点で救い主イエス様の誕生と、イエス様が十字架にかかられる事もよって罪をすべて打ち砕く、サタンに勝利されることを、約束されていたのです。救い主イエス様が誕生する少し前に決まったのではない、ずっとはるか昔から神様は私たちを思い、救いの計画をずっと遂行されていたのです。
人類の歴史を考えても、カインの人類初の殺人事件にしても、ノアの洪水のころの時代にしても、いつの歴史を切りとっても目を覆いたくなることがどれだけあった事でしょう。神様からしたら、もう見捨てると宣言されてもおかしくないほどのことがどれだけあったでしょう。しかし神様はそれでも滅ぼすのではなく、御手を伸ばされ続けたのです。語られ続けたのです。今イザヤに語られているのは、それと同じ。神様に立ち返って命を得てほしいから、黙っているのではなく、語られるのです。それこそ、この後マナセ王に殺されることになろうと、神様は彼らイスラエルの民を、またあなたを諦めておられないのです。神様が「島々」に向けても語られているように、ある一部の人だけではない、神様から遠く離れてしまった人にまで神様はそれでもと、語られるのです。神様は遠くないのです。
神様はイザヤを通して「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」と語られていますね。え?イエス様のことばって剣なの?と思いたくなるところですが、これはとても大事な話です。
といいますのも、パウロという1世紀の伝道者、多くの迫害の中それでも人々に仕え、御言葉を語った彼は「邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。…また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」とその手紙で書き送ります。神様の剣、それは神様のみことばです。私たちが誰かを傷つけるためのものではありません。
ではそれは何のために語られるものなのか、それは究極的に言えば私たちが救われるために語られるものです。そして私たちの足の灯、私たちのゆく道の光です。時に私たちが迷い出るとき指示される道標であり、私たちを誘惑から救い出す、行き詰まりどうしようもなくなったその壁を切り倒す剣です。神様は私たちのために、その口から御言葉を発し、戦われる、導かれるのです。
その神様の愛は尽きることはありません。私たちの目には隠れているように見えても、神様はその矢筒が途切れて何もできなくなることはありません。いつも私たちのために備えてくださっているのです。そして神様は時に応じ受肉前のイエス様を遣わされ、ついにはイザヤから後の時代に人として生まれさせてくださったのです。矢は解き放たれ、あなたを救われるのです。あなたの魂を射止め、救い出すために。
古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。…彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、『だれに、見破ることができよう』と言っています。彼らは不正をたくらみ、『たくらんだ策略がうまくいった』と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう」と詩に残します。
神様はあなたの声を聴いておられ、命を守るために、その矢を解き放ってくださる、これの前にどんなに高ぶるものも、どうにもならないことも打ち破ってくださり、ついには私たちの心は慰めを得、回復させていただけるのです。私たちはこの隠れた矢筒、イエス様のもとに憩おうではありませんか。
イエス様はその公生涯に入るまでの30年間、御父のうちに過ごされ、公生涯に入られたあとも、御父のうちにとどまり続けました。その御子イエス様は弟子たちに「わたしが御父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」と言われました。なぜなら、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないから」、と。
イエス様があなたの救いとなるために、矢となり放たれ、私たちのところに住まわれました。遠く離れたところではなく、あなたの内に来られたのです。私たちがイエス様に留まることができるように、まさに近くに来られた、すぐそばに来られたのです。それこそ、昨日の分かち合いのように側に呼び出され留まり、慰め、救うために。
ただ、イエス様が人となって生まれてきたころも含めて、↑で神様が語られるように、イエス様にとって、「時にむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果た」すように感じることも多くありました。それでも、イエス様は私たちを救うためならと、その愛の矢を途切れさせることなく、イエス様の報酬、あなたが永遠の命を得るためなら、と、ご自身の命という最大の矢を用いてくださり、私たちの魂を救わんと、ご自身を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。しかし、3日目によみがえらせていただいたことによってこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子として、世のものとは違う、秘めたる、イエス様の救いによって完成された命の関係に私たちを招かれた、私たちがこのイエス様の御翼のもとに住まうことを、憩うことを赦されたのです。
このイエス様の命がけの矢が切り開かれた道、与えられた命は他でもない、このイエス様が一緒なのです、このイエス様と一緒に今遣わされているのです。地の果てにまで至るこのイエス様の救いが、栄光が全地に溢れる事を私たちは今日祈ろうではありませんか。そしてこの救いの矢を全世界に届けたいものです。そこに神様の御国が豊かに広がる事を願いつつ。私たちにはそんな事をして何になると思う事でも、イエス様がそこにおられるなら、無駄になる事なく驚くべき御業をなされ、実を実らせて下さるから。